第1252回 リール、57年ぶりのリーグ制覇(5) リールのクラブの歴史と優勝が及ぼす影響

 3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、救援活動、復旧活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1944年に2つのクラブが合併して誕生

 最終戦を残してリールは57年ぶり3回目の優勝を果たした。リールの過去の優勝歴を振り返るならば、1954年と1946年に優勝している。フランスのサッカーに詳しい読者の方であれば、1933年の初代のリーグチャンピオンがリールであったと指摘されるかもしれないが、これはオランピック・リロワというクラブである。リールにあったこのオランピック・リロワと、リールのフィーブ地区にあったSCフィーブと言うクラブが第二次世界大戦中の1944年11月に合併したのが、現在のリールである。
 リロワと言うのは「リールの」という形容詞である。オランピック・リロワはリール市のカラーである赤をチームカラーとしていた。一方、フィーブと言うのはリールの中の地区の名前であり、SCはスポーツクラブという意味であり、青がチームカラーであった。SCフィーブも強豪であり、リーグ戦で2位になったこともある。この合併は戦争の影響を受けたものであるが、両クラブの合併は対等であり、本拠地はオランピック・リロワの使用していたものを使う代わりに、クラブの事務所はSCフィーブのものを使用した。そして現在のリールのチームカラーは赤と青であるが、赤はオランピック・リロワのチームカラー、かたや青はSCフィーブのチームカラーである。そして極めつけは合併後のクラブのネーミングである。現在のリールのクラブの正式名称はリール・オランピック・スポーツ・クラブであり、LOSCと略されるが、これは両チームの名称をうまく組み合わせたものである。

■第二次世界大戦後の1946年に二冠を達成

 第二次世界大戦の戦中戦後に多くのクラブが合併したが、新生リールは戦後初のリーグ戦である1945-46シーズンで早速優勝を果たしたのである。このシーズンがフランスサッカー第二のスタートであるとするならば、リールと言う町は第一のスタートの際に続いてリーグ戦が始まったり生まれ変わったりした時に栄冠を獲得しているのである。また、この1946年にはフランスカップにも優勝し、新体制初年度で二冠を達成しているのである。
 フランスカップについては1946年から3連覇を果たし、1950年代に入っても1953年、1955年に優勝している。1946年と1954年のリーグ制覇とあわせると、第二次世界大戦後10年間で最も多くのタイトルを獲得したチームであり、戦禍から復興するフランス人に希望を与えたチームであったと言えよう。そしてこの時期にもしもチャンピオンズカップなどの欧州カップが開催されていれば、フランスのサッカーの歴史も変わっていたかもしれない。
 しかしそのリールもリーグに関しては1954年を最後に優勝から遠ざかり、今回57年ぶりの優勝となった。この記録を破る可能性のあるチームとしては、1938年に最後に優勝したソショーくらいであろう。

■来年完成する待望の5万人収容の競技場

 さて、このリールの優勝がもたらしたものは非常に大きい。リールの人口は22万人でフランスでは10番目の都市である。この10都市のうち、ワールドカップを開催しなかったのは5位のニースと7位のストラスブール、そしてこのリールだけである。ニースは地域的にマルセイユなどに近かったことが開催しなかった理由であり、ストラスブールは開催都市に内定しながら、「巨大な競技場よりも市民がスポーツを行う施設の建設を優先」と言うことで競技場の改修を見送った経緯がある。そしてリールは本連載でもしばしば話題になるが、本拠地のグリモンプレ・ジョリス競技場が2005年に改修を断念、現在は近郊のビルヌーブ・ダスクにあるノール・リール・メトロポール競技場に仮住まいしている。しかし、来年5万人収容の新競技場が完成予定であり、この地区の活性化が期待される。

■ニコラ・サルコジ大統領の地元のパリで二冠獲得

 そして来年は大統領選挙の年である。リールはシャルル・ド・ゴールの生誕の地であるが、フランスで初めての社会党市長が誕生した都市であり、伝統に社会党の地盤の強いところである。現在の市長のマルティーヌ・オブリーも社会党首である。現職のニコラ・サルコジ大統領が地盤とするパリおよびその近郊で2度優勝を決めたリールはフランスの政界にも大きな影響を与えたのである。(この項、終わり)

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