第133回 本年最終戦、ユーゴスラビアに快勝(2) パリの魔術師サフェット・スシッチ
■フランスで一番有名なユーゴスラビア人選手、サフェット・スシッチ
前回の連載では日本で最も知られているユーゴスラビア人選手であるドラガン・ストイコビッチとフランスの関係について紹介したが、今度は早速フランス人と思われる読者の方から反応があり、ストイコビッチは日本で一番有名なユーゴスラビア人選手かもしれないが、フランスで一番有名なユーゴスラビア人選手ではない、というご意見をいただいた。
前回紹介した通り、マルセイユでのストイコビッチは膝の負傷に泣き、満足な活躍をすることができなかった。ストイコビッチがマルセイユに所属していたことを認識していないフランス人のファンも少なくないであろう。ストイコビッチはマルセイユに所属していた1992年の欧州選手権ではユーゴスラビアは本大会直前に政治的な問題から出場を取り消され、スウェーデンの地を踏むことなく、結局、ストイコビッチが国際舞台で活躍したハイライトは1990年ワールドカップ・イタリア大会である。その1990年ワールドカップ・イタリア大会の予選でフランスを蹴落としたのがユーゴスラビアであり、その中心となったのがフランスで一番有名なユーゴスラビア人選手、サフェット・スシッチなのである。
■ミッシェル・プラティニの初陣はユーゴスラビア戦
1990年ワールドカップ・イタリア大会予選はキプロス戦について紹介した第106回で書いたとおり、1988年の秋に始まった。9月の初戦はホームでノルウェーに勝つが、10月のキプロス戦で引き分け、アンリ・ミッシェル監督が更迭される。ミッシェル・プラティニが新監督となり、就任後間もなくライバルであるユーゴスラビアと11月19日にベオグラードで対戦する。3週間前に監督に就任したプラティニは新メンバーとしてアラン・ロッシュ、クリスチャン・ペレスをスターティングメンバーに起用する。パリサンジェルマン所属のペレスがこの試合で大当たり、前半3分に先制点、11分に追いつかれるものの、68分にはペレスのパスを本連載第19回と第20回で紹介したフランク・ソーゼーが決めて勝ち越し点。勝ち越したところでペレスはベンチに下がるが、その8分後にゴールを決めたのはパリサンジェルマンに所属するフランス人であった。実はこれがフランスで最も有名なユーゴスラビア人選手のスシッチである。
■パリサンジェルマンを成長させたスシッチ
スシッチは1955年生まれ、若き日から天才ゲームメーカーとしてその名を知られ、1982年ワールドカップ・スペイン大会に出場している。1次リーグで敗退してしまったものの、大会終了後、スシッチはサラエボからパリサンジェルマンに移籍する。そして移籍初年、パリサンジェルマンは前年に続いてフランスカップの決勝に進出する。連覇を目指すパリサンジェルマンの相手はリーグとの二冠を狙うナントである。パリサンジェルマンはスシッチのFKから先制点をあげる。その後ナントに1-2と逆転されたが、65分にスシッチの一撃で同点に追いつき、82分の決勝点はスシッチのクロスからトコがあげる。結局3-2と言うスコアでパリサンジェルマンが二連覇を果たすが、3点の全てに絡む活躍をしたスシッチは、パリサンジェルマンのゲームメーカーとしてパリジャンに愛されたのである。スシッチはパリサンジェルマンが1985-86シーズンにフランスリーグを初制覇する原動力となり、パリサンジェルマンをパリらしいチームに育てていく。新興チームのパリサンジェルマンが1980年代の後半にフランス有数の強豪に育ったのはこの魔術師スシッチの変幻自在のゲームメークによるところが大きい。
■フランス国籍を取得直後にフランス戦勝利
そのパリジャンに愛されたスシッチは1988年10月にフランス国籍を取得する。二つ目の国籍を取得したスシッチにとって最初の国際試合は奇しくもフランス戦であったのである。この試合、地元で1点ビハインドのユーゴスラビアは76分、スシッチが同点ゴールをあげる。スシッチにとって国籍を取得したばかりで第二の母国となったフランスのGKはパリサンジェルマンの同僚のジョエル・バツであった。そして、その6分後、決勝点をあげたのは前回の連載で紹介したストイコビッチである。新旧のゲームメーカーの2人にとってこれがフランスとの3回目の対戦、そしてそれが最初で最後のフランス戦勝利となったのである。
スシッチは1990年のワールドカップ・イタリア大会でも老練な技を見せ、1990-91シーズンまでパリサンジェルマンに所属する。スシッチの退団とともにパリサンジェルマンはブラジル人選手を獲得するが、1980年代後半のパリサンジェルマンは監督にトミスラフ・イビッチ、FWにズラトコ・ブジョビッチとユーゴスラビアカラーで染まり、その中心が魔術師スシッチだったのである。ワールドカップ・イタリア大会に出場できなかったフランスだが、その2大会後には世界の頂点に立った。時代の移り変わりはあるものの、11月のユーゴスラビア戦はフランス人にとっては忘れられない苦い思い出でとなったのである。(続く)