第1回 フランス代表、初のアンデス越え(1) 70年間のチリとの対戦史
8月のブルーはナントで難敵デンマークを倒し、上々のスタートを切った。大西洋に臨む港町ナントは国民のアイドルであるタンタンが船出をした町であり、ブルーもタンタンに続けとばかりに大西洋を横断し、アンデス山脈を越え、チリとサンチアゴで親善試合を9月1日に行った。
■チリにまつわる二つの苦い思い出
フランス代表がアンデス山脈を越えるのはこれが初めてのことである。フランスはチリというと苦い思い出がある。チリというと日本のサッカーファンの皆さんは1962年のワールドカップ・チリ大会を思い出されるであろう。この大会は日系ペルー人のヤマサキ・アツロー氏が審判として準決勝の笛を吹くなど大活躍し、この大会を契機に日本のサッカーファンが大挙してワールドカップを観戦するようになったのであろう。
フランスはワールドカップ・チリ大会予選をフィンランド、ブルガリアと同じ組で戦い、フィンランドにはホーム、アウエーと連勝し、ブルガリアとはホームで3-0と勝ったものの、アウエーで0-1と敗れる。規定によりブルガリアとのプレーオフが行われる。フランス代表がワールドカップ予選のプレーオフを戦うのは1950年のブラジル大会予選に続き2回目のことである。スイス大会予選の際はユーゴスラビアと予選を戦い、ベオグラードでの第1戦もパリ近郊のコロンブでの第2戦も1-1の引き分けとなり、プレーオフが行われる。イタリアの花の都フィレンツェで行われた試合は延長戦の末、114分に決勝ゴールを奪われ、初めての予選参加は苦い思い出となる。それに続く2回目のプレーオフは同じイタリアのミラノのサンシーロ・スタジアムで1961年12月16日に行われた。両チーム無得点で迎えた後半立ちあがり早々の47分、フランスの守備の要アンドレ・ルロンドがオウンゴールを献上、これが決勝点となって前回大会で3位となったフランスはチリでの本大会出場を逃したのである。
フランスはチリにはもう一つ苦い思い出がある。1930年にフランスが大西洋を渡り出場したウルグアイでの最初のワールドカップ、フランスは開幕戦でメキシコを4-1と破るが、続く第2戦でアルゼンチンに0-1と敗れる。決勝トーナメント進出をかけて最終戦でチリと戦う。もちろんこれがチリとの初対決である。この試合GKのアレクシス・テポがPKを阻止する活躍をしたが、64分に決勝点を許し、0-1で敗れ、決勝トーナメント進出を逃し、モンテビデオのセンテナリオ・スタジアムを去ったのである。
■パリでの初勝利、そしてリヨンでの黄金時代のスタート
さて、チリに対してフランスが初勝利をあげたのはその30年後である。最初の欧州選手権を控え、強化を図るフランスは1960年3月16日にパリのパルク・デ・プランスにチリを迎える。レイモン・コパを負傷で欠くこの試合でフランスは後半にゴールラッシュし、6-0で大勝し、チリからの初勝利をあげたのである。
そしてもう一度の戦いはその34年後の1994年3月22日である。前年秋にワールドカップ予選で敗れたフランスはエメ・ジャッケ新監督の下で捲土重来を期す。ナポリでのデビュー戦で1-0と幸先の良いスタートを切ったフランスは地元での第1戦をパリではなくリヨンのゲルラン・スタジアムでチリを迎える。この試合はちょうど欧州三大カップや各国のカップ戦が佳境を迎え、一方のチリもリベルタドーレス選手権に出場しているコロコロの選手を欠き、過密スケジュールでフランス代表から辞退する選手も少なくないのではないか、という声もあった。
しかし、ACミラノのジャン・ピエール・パパン、マルセル・デサイー、パリサンジェルマンのアラン・ロッシュ、ダビッド・ジノラ、ベルナール・ラマ、ポール・ルグアン、モナコのユーリ・ジョルカエフなどが揃い、欠場したのはマンチェスターユナイテッドのエリック・カントナくらいというベスト・メンバーでチリと戦った。
試合は前半7分にジノラの左からのセンタリングからのチャンスをパパンが得点し、先制する。11分にはレアル・マドリッドの一員として3週間前に欧州カップ・ウィナーズカップの準々決勝をパリサンジェルマンと戦ったばかりのイバン・サモラノが同点ゴールを決めるが、18分には再びジノラからのセンタリングからジョルカエフが勝ち越しゴール。後半に入っても途中出場のコランタン・マルティンスが3点目を上げて、ジャッケ新体制は地元で3-1と勝利を飾ったのである。(続く)