第185回 古豪エジプトと初対戦 (2) スエズ運河をめぐる英仏の争い
■英仏両国に渡ったエジプトの秘宝
前回の本連載はナポレオンのエジプト遠征までの歴史を紹介したが、このナポレオンの遠征がその後のエジプトの歴史に大きな影響を与えることになる。それは英国のエジプトに対する介入と英仏の対立である。大英博物館を訪れた人ならば誰もが見たことのある「ロゼッタ・ストーン」、実はこれは学者、芸術家を帯同したナポレオンの遠征軍が発見したものである。しかし、エジプト遠征で英国に敗れたフランスはアレクサンドリア条約を締結し、その中でフランスはロゼッタ・ストーンを英国に譲渡することとなり、時の英国国王ジョージ三世はこの秘宝を大英博物館に寄贈したのである。
しかし、エジプト遠征の失敗でフランスがエジプトでの影響力を失ったわけではない。ナポレオン遠征後の国内の混乱に乗じてアルバニア人のムハンマド・アリがエジプトを統一し、エジプト総督となってフランスの援助により富国強兵政策をとる。ムハンマド・アリ総督は、ルクソール神殿のオベリスクをフランスのシャルル十世に寄贈し、このオベリスクは世界で最も美しいオベリスクとしてパリのコンコルド広場の中央で輝いているのである。ムハンマド・アリはエジプトの近代化を進めるとともに、オスマン帝国とエジプト・トルコ戦争を行う。フランスがエジプトを支援し、ロシアがオスマン帝国を支援したことから、結果的に英国が干渉することとなり、1860年代にエジプトは英仏の管理下におかれることになった。
■12万人が命を落としたスエズ運河の建設
英仏の干渉を強めたのは1869年のスエズ運河の開通である。スエズ運河は東方への進出を夢見たナポレオンの着想によるものと言われ、フランス人の外交官フェルディナン・レセップスはカイロ領事として20年越しの願望であるスエズ運河建設に1859年に着手し、10年間の工事の末、開通させたのである。この運河建設はフランス政府、エジプト政府が主体となり、エジプト人農民が無給で強制労働を強いられた。灼熱の太陽の下での長時間労働により、過労によって次々に命を落とすものが絶えず、その死者は少なくとも12万人に上るという両国の歴史の中で最大の汚点となっているのである。
■スエズ運河の完成後に態度を変えた英国
英国政府は、インドへの交通路として鉄道を建設していたこともあり、フランスによるエジプト人の強制労働を批判し、運河建設に反対をしていた。ところが、安価な大量輸送を可能にしたスエズ運河の完成後、英国は態度を一変させる。運河の利用船籍数のトップは英国籍であり、英国のビクトリア女王はレセップスに勲章を授与し、英国はスエズ運河の利権を手に入れることを虎視眈々と狙ったのである。そして、その英国の野望は欧州情勢の変化によって予想よりも早く実現される。
■財政難のフランスを横目に英国が主導権を握る
1875年、フランスを初めとする欧州諸国からの借入金で近代化を進めてきたエジプト政府は財政難に陥り、スエズ運河の事業主体であり、エジプト政府が2番目の大株主である国際スエズ運河会社の株の売出しを発表する。本来ならば、ここで筆頭株主のフランス政府が触手を伸ばすべきであるが、フランスはスエズ運河開通の翌年に普仏戦争に敗れ、ドイツに莫大な賠償金を支払わなくてはならず、国庫にはこの株式を買い取る余裕はなかったのである。
一方の英国はベンジャミン・ディズレリ首相がロスチャイルド家の協力を取り付けて、短期間で資金を準備する。英国はスエズ運河会社の株を手に入れ、アジアに向けて扇の要のようなスエズ運河の管理、運営に大きな発言力を持つようになったのである。国情不安定なエジプトは1881年から1882年にかけて「エジプト人のためのエジプト」を唱えるアラービ・パシャの乱が起こる。この反乱は英国が単独で鎮め、英国が完全に主導権を握るようになり、事実上、エジプトは英国の植民地となったのである。また、スエズ運河を英国が手に入れたことは、当時の帝国主義戦略においてインド、マレーシア、シンガポールなどの要所を支配することにつながった。もしもワインの生産でも有名なロスチャイルド家がフランスに協力していれば、エジプトだけではなく、東南アジアの歴史も大きく変わり、そのサッカー地図も変わっていたであろう。(続く)