第2153回 ルクセンブルクに快勝(3) バンジャマン・マンディとキリアン・ムバッペがデビュー
6年前の東日本大震災、昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■代表Aマッチとして認められなかったワールドカップ予選での対戦
豊かな小国であるルクセンブルク、いまだにワールドカップも欧州選手権も本大会には出場したことがない。サッカーの世界では1911年に最初の国際試合をフランスとの間で行っている。しかし、その力量の低さゆえにフランス協会からは代表Aマッチと認めないルクセンブルク戦も存在した。
1953年12月17日にパルク・デ・プランスで行われた試合のフランスは全員が代表未経験者であった。それでも試合は8-0とフランスが大勝する。この11人の代表デビューのメンバーには5年後にスウェーデンで行われたワールドカップで3位に輝いたジュスト・フォンテーヌ、ジャン・バンサン、ジャック・フォワなどが含まれていた。そしてこのチームを率いたのは名将アルベール・バトーである。いまだに破られていないワールドカップでの1大会最多得点をスウェーデンで記録したフォンテーヌはこの試合で3得点をあげて片鱗の兆しを見せている。
■ジュスト・フォンテーヌの幻の3得点
なお、この試合は親善試合ではなく、ワールドカップ予選であったが、長い間フランス協会は国際Aマッチとして認めなかった。このルクセンブルク戦が代表Aマッチとして認められたのは1984年のことであった。当時のフランスのエースはミッシェル・プラティニ、プラティニは欧州選手権の第1戦のデンマーク戦で代表通算27得点をあげ、フォンテーヌに並んだかと思われたが、ルクセンブルク戦の幻の3点が認められ、プラティニがフォンテーヌに並んだのは準決勝のポルトガル戦、そして決勝のスペイン戦で単独トップに立ったのである。
■新人で唯一先発に名を連ねたバンジャマン・マンディ
フォンテーヌ、バンサン、フォワという1958年のワールドカップ躍進の原動力となったメンバーがデビューしてから64年、今回代表初招集された5人のうち何人が代表にデビューするかが関心の的である。
ルクセンブルクのジョジ・バルテル競技場に白いユニフォームをまとった先発メンバーは次の通りである。GKはウーゴ・ロリス、2人の代表未出場の控え選手がいるが主将を外すわけにはいかないであろう。DFは右からジブリル・シディベ、ローラン・コシエルニー、サミュエル・ウムティティ、そして唯一の代表デビューとなったのが、左サイドのバンジャマン・マンディである。守備的MFはエンゴロ・カンテとブレーズ・マツイディ、攻撃的なMFは右にウスマン・ダンベレ、左にディミトリ・パイエ、トップ下にアントワン・グリエズマン、そして1トップはオリビエ・ジルーである。
■オリビエ・ジルー、2得点を決める
先制点は28分、右サイドのシディベがボールを持ち込み、GKと競り合いながらゴール前にパスを出す。このパスをジルーが難なくシュートし、ゴールネットを揺らす。
ルクセンブルクとは過去5試合無失点のフランスであったが、31分にマツイディがペナルティエリア内で相手の選手を倒してしまい、PKを与えてしまう。このPKをベルギーのリエルセに所属するオーレリアン・ジョアキムが決めて同点に追いつく。ルクセンブルクのフランス戦での得点は1978年のロマン・ミショー以来39年ぶりのことである。
フランスもその直後にシディベがペナルティエリア内で倒され、PKを得てグリエズマンが勝ち越しのゴールを決める。その後、マツイディのシュートがバーに嫌われ、前半は1点リードで折り返す。
後半に入ってこう着状態が続いたが、77分にカンテが左サイドのマンディにパス、マンディのクロスをジルーがヘディングで決める。これでジルーは代表23得点目、歴代得点ランキングで10位である。またデビュー戦でアシストを決めたのは2年前のベルギー戦でのポール・ジョルジュ・ヌタップ以来のことである。
そしてお待ちかねの背番号12、キリアン・ムバッペが78分にピッチに入る。18歳と3か月での代表デビューは史上2番目の若さである。
試合はフランスが3-1と勝利、勝ち点を13と伸ばし、首位をキープしたのである。(この項、終わり)