第32回 ありがとう、JPP
■背番号9が最もよく似合うフランス人
背番号9が最もよく似合うフランス人、ジャン・ピエール・パパンが引退した。
ジョン・F・ケネディがJFKと呼ばれ、マリリン・モンローがMMと呼ばれたように、ジャン・ピエール・パパンはJPP(ジーペーペー)と呼ばれ、愛されていた。様々なニックネームで呼ばれるサッカー選手がいるが、JPPのようにイニシャルで呼ばれる選手はおそらく彼の前にも後にもいないであろう。それほど、印象に残る選手であった。
JPPは北部の港町ブローニュで生まれ、父親のギ・パパンも2部リーグでプレーしたこともあり、少年時代からストライカーとして非凡な才能を示していた。JPPが自らの才能を信じ、プロの選手になろうとしたのは17才の時であった。当時2部のバランシアンヌに所属していた17才の少年は、国立ヴィシーサッカー研修所の選抜に合格し、3年間のエリート教育を受けることとなる。
卒業後、バランシエンヌからベルギーのFCブルージュに移籍する。1シーズンしか在籍しなかったが、リーグ戦33試合で21得点、リーグ優勝こそアンデルレヒトに譲ったがベルギーカップを獲得、またUEFAカップのボアビスタ戦ではハットトリックを達成する。この活躍が認められ、メキシコ・ワールドカップを控えた1986年2月26日の北アイルランド戦で代表デビュー。フランス国内の1部リーグでの出場経験がなく代表デビューした選手というのも極めて珍しいケースであろう。メキシコ大会では背番号17をつけてカナダ戦で1得点した。
■マルセイユの黄金時代を支えたスペクタクルなボレー
しかしながらこの年は、彼にとってもフランスサッカー界にとっても転機となる。ベルナール・タピがオランピック・マルセイユの会長に就任し、監督にはミッシェル・イダルゴが就任、モナコに移籍しようとしていたJPPを獲得する。2年前に2部から復帰し、1部の下位を低迷していた名門マルセイユは、JPPの加入とともにいきなり2位に躍進。2年目には得点王となり、3年目の1988-89年にはついにチームが17年ぶりの優勝を果たす。1991-92年までマルセイユに所属し、5年連続得点王、リーグでは4連覇を達成した。マルセイユはこの間国内では無敵、チャンピオンズカップでも常に上位に進出し、フランスのドリームチームとなり、JPPはその象徴となったのである。
この時代、フランス語の辞書にはpapinadeという新たな単語が加わった。「パパンのもの」というこの単語の意味は「JPPのスペクタクルなボレー」である。右から左からそして後方からのセンタリングに対して小柄なパパンが鮮やかにボレーシュートを決める姿に国民は熱狂した。JPPは誰もが予期できないような状況でボレーシュートを放つことのできる希有な才能の持ち主である。JPPがこのpapinadeを連発した1991年には欧州最優秀選手に選出され、レイモン・コパ、ミッシェル・プラティニに次いで3人目のフランス人の受賞となったが、フランスリーグ所属のフランス人としては初受賞であった。
■ビッグタイトルに無縁な選手
しかし、これだけのタイトルを手にし、大一番に決して弱いタイプではないにも関わらず、不思議とビッグタイトルには無縁な選手であった。マルセイユのJPPが獲得できないタイトルが「ビッグイヤー」と呼ばれる欧州チャンピオンズカップであった。1989-90の準決勝では誤審でベンフィカに敗れ、翌年は宿敵ACミラノを倒し、決勝まで進出しながら守りを固めたベオグラード・レッドスターに対し一方的に攻めるが、120分無得点、結局PK戦で準優勝にとどまる。そしてマルセイユでの最後のシーズンとなった1991-92は伏兵スパルタ・プラハに2回戦で敗退する。
そして1992年には宿敵ACミラノに移籍。ミッシェル・プラティニ以来の代表クラスの選手の国外移籍に、熱狂的なマルセイエーはベロドロームでJPPを見送ったのである。しかし、ミラノのJPPはマルセイユのJPPではなかった。移籍1年目の1993年5月にチャンピオンズリーグ決勝で古巣マルセイユと対決、スタメンから落ちたJPPは途中出場したが、精彩を欠き、旧友バジル・ボリの決勝ヘッドの前に屈辱を味わう。
ミラノのJPPとなってもビッグイヤーを獲得することはできなかったのである。インターコンチネンタルカップ、欧州スーパーカップとも得点はしたが敗退する。2季在籍した後、名門バイエルン・ミュンヘンに移籍。負傷を重ね、思ったような動きはできず、ここでも2季在籍し、結局1996年にはボルドーに。用意された背番号は27。2年間で55試合出場、22得点。今春のスタッド・ド・フランスでのリーグカップ決勝ではPK戦でパリサンジェルマンに優勝は譲ったものの、フリーキックから見事なゴールを決め、今季2部のガンガンに移籍したばかりである。
■全盛期に世界の檜舞台に立てず
また、代表としても54試合出場で30得点と抜群の成績を誇っているが、不遇な選手であった。デビューとなった1986年のワールドカップ・メキシコ大会では予選リーグのカナダ戦で得点を上げただけで重要な試合には出ていない。1988年の欧州選手権、1990年のイタリア大会はともに予選落ち。1992年の欧州選手権の予選ではpapinadeを連発し、グランドスラム(8戦全勝)を達成し期待されたが、本大会では惨敗する。
1994年のアメリカ大会予選も最終戦は途中でベンチに下がり、チームはロスタイムに失点し、最盛期にワールドカップに出場することはできなかった。若返りを図ったエメ・ジャッケの構想からはずれ、1996年の欧州選手権予選で最初の3試合はJPP抜きで戦い、3戦連続のスコアレスドロー。4戦目となったアウエーのアゼルバイジャン戦で先発し、先制ゴールを決め、イングランドへの道を切り開いたのが最後のブルーのユニフォーム姿であった。
ワールドカップでは解説者として活躍したが、背番号9が世界の桧舞台でスーパーボレーを連発するシーンを是非とも見てみたかったものである。