第41回 読者のお便りから―――ヴァルター・ベンヤミンとコロンブ競技場

■1939年、ワールドカップの翌年にコロンブ競技場で何が起こったのか

 本連載もおかげさまで1年が過ぎた。数は少ないものの、読者の皆様からの励ましのメールや質問が何よりも楽しみである。今回はこの1年間の読者の皆様からのお便りの中で最も印象に残るものを題材としよう。
 お便りの主は新聞社の経済部を退職して久しい老ジャーナリスト、現在は執筆活動や講演活動とともにフランスの近代思想史などを研究しておられるとのこと。お便りの内容は第2回連載の「スタッド・ド・フランス建設に至る60年の物語」についてである。
 この回はスタッド・ド・フランスだけではなく、1924年のパリ・オリンピックと1938年のフランス・ワールドカップでメイン会場となったコロンブ競技場も紹介している。コロンブでは1938年のワールドカップ決勝がイタリアとハンガリーの間で争われ、以後第二次世界大戦の戦火に欧州も巻き込まれていく、と記した。
 老ジャーナリストはワールドカップの翌年にコロンブで何が起こったかということを筆者に知らせてくれた。以後、老ジャーナリストからのお便りの要約をご紹介させていただきたい。

■ジャーナリストの手紙から―――亡命中にコロンブに収容されたベンヤミン

 このところヴァルター・ベンヤミンの著作や評伝などに取り組んでいるのですが、昨夜、今橋映子著「パリ・貧困と街路の詩学-1930年代外国人芸術家たち」(都市出版)を読んでいましたところ「コロンブ競技場」のことが記述されておりました。
 「フランス・サッカー実存主義」の第2回によると、コロンブ競技場が建設されたのは1924年。1938年にはワールドカップが行われています。その翌年、ベンヤミンたちはフランス政府により強制収容されましたが、そのとき収容されたのがコロンブだったと今橋さんの著作にあります。コロンブでの悲惨な状況についてはベンヤミンとその友人の書簡などにも記述されています。
 サッカー、スポーツという人間精神の究極の美しかるべき表現の場であったコロンブ競技場が翌年には寒々とした収容所となってしまったという歴史的事実に、あらためて深い感慨がありますし、サッカーが戦争や暴力と決して無縁ではあり得なかったことの再発掘を求められていると思います。
 ご存じとは思いますが、ベンヤミンはドイツ生まれのユダヤ人思想家。ナチスに追われ、パリに亡命し、フランスからも追われてスペインに再亡命の地を求めますが、スペイン入国を拒否され、1940年9月、ピレネー山中で服毒自殺します。彼の業績の全貌が明らかになってきたのは冷戦終結後のことで、大著「パサージュ論」などを通して、世界の思想界、アカデミズムで”何世紀かに一人の偉大な思想家”と評価されています。
 1933年1月にヒトラーが政権を奪取して後、10万人を越えるドイツ人がフランスに亡命しますが、1935年にはフランス政府は滞在許可証を所持しない外国人を強制退去させ、さらに1939年8月からドイツ人亡命者の逮捕・強制収容を行っております。その収容所として使われたのがコロンブであったというわけです。
 「フランスは異なる価値に対してあくまで寛容である」というのは、一面をしか物語ってはいないことを、この史実は示していると思います。
 コロンブのことを教えて下さって、本当にありがとうございました。今度パリに出かけた際、コロンブに行って、この眼でベンヤミンの苦渋の日々に思いを馳せることにします。

■サッカーの歴史からあらためて知る平和の尊さ

 このようなお便りをいただき、筆者としては至上の喜びである。
 フランス現代史の中で忘れてはならないのが第二次世界大戦中のヴィシー政権とユダヤ人問題である。大戦中にドイツに占領され、現在は国立サッカー研修所で有名なヴィシーにペタン元帥を首班とするナチス協力政権が存在したこと、ユダヤ人を迫害したことは多くの読者の方がご存じであろう。
 1995年7月16日には就任間もないジャック・シラク大統領は「人権の国フランスは償いのできないことをした」とヴィシー政権に関するフランスの責任を大統領として初めて認めた。前任のフランソワ・ミッテラン大統領が政権末期にヴィシー政権との関連が明るみになったこともあるが、自由・平等・博愛をモットーとするフランス共和国のタブーとも言えるこの竭閧フ国家責任を認めたのである。
 ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、欧州が戦火に巻き込まれたのは1939年9月1日、翌々日には英仏がこれに対して参戦している。そして9月上旬にはパリ中にドイツ人亡命者達の眼を引く掲示が張り出された。「ドイツ、オーストリア、ザールランドから来ているすべての市民はナイフとフォークを持参し、二日分の食料を携帯して、コロンブ競技場に直ちに赴くこと」すなわちベンヤミンのようにナチス・ドイツから追われてきた者も含めてドイツ人はすべて敵国人になり、強制収容の対象となったのである。
 ベンヤミンはコロンブに10日ほど収容された。民族問題でドイツを追われてきたフランスでも「敵国人扱い」され、2万人の同志とともに缶詰にされた鰯のように詰め込まれたベンヤミンを思うと「サッカーは戦争だ」などと軽々しく言うことがいかに恥ずかしいことであるか思い知るとともに、平和の尊さをあらためて感じるのである。

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