第54回 皆既日食と名門ランスの復活
■皆既日食で賑わったパリ東方の町、ランス
バカンスの最中の8月11日、ヨーロッパでは今世紀最後の天体ショーである皆既日食が世紀末の人々を驚かせた。部分日食はしばしば観察されるが、皆既日食となるとこれは非常に珍しい。皆既日食が特定の町で観測されるのは370年に一度の確率と言われている(次にフランスで皆既日食が見られるのは2081年)。欧州ではイギリス、フランス、ドイツ、オーストリアなどからトルコにかけて皆既日食となった。フランスでは自転車レースのツール・ド・レンも影響を受けた。パリでも限りなく皆既に近い99%の部分日食となった。人口が密集している大都市から近い地域で皆既日食が観察されたことも多くの人の関心を集め、バカンス中ということも重なり、多くの人々が皆既日食を観察できる地方へと移動したのである。
パリジャンが暗黒の2分23秒を求めて移動したのは、東方150キロにあるランス(Reims)。シャンパンで有名なシャンパーニュ地方の中心都市であり、大聖堂の存在でも知られる町である。ランスというと、この連載の第34回でも取り上げた1997-98シーズンを制したRCランスと、昨年のワールドカップのフランス-パラグアイ戦で知られる北東部の炭鉱都市のLensが日本のサッカーファンの間ではおなじみになった。しかし、シャンパーニュ地方の中心都市でシャンペン産業で栄える町と、落日の炭鉱都市では町の勢いが違う。
しかも町の規模だけではなくサッカーの世界でもランスといえばLensではなくReimsなのである。昨年のインターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)を制した欧州代表は伝説のチームであるレアル・マドリッド。このチームの年表には1956年から欧州チャンピオンズカップを五連覇したことが誇らしげに書かれている。その最初の優勝時の決勝戦の相手が、フランス代表の「スタッド・ド・ランス」なのである。
■名手レイモン・コパの加入により、欧州トップレベルのクラブに
シャンパンのボトルがエンブレムに描かれた赤と白のアーセナル型のユニフォームは、第二次世界大戦後の復興期のフランス・サッカーの主役であった。ランスの最初のリーグ制覇は1948-49のシーズン。翌年はリーグでは3位にとどまったものの、ラシン・パリを3-0で下してカップを獲得。1950年にSCOアンジェから伝説の名選手、レイモン・コパが移籍してきた。
コパの名字は正確にはコパゼウスキー。北フランスの炭鉱町に住み着いたポーランド移民の子供である。生まれた町のノーレミンのクラブで北フランスジュニア選手権を制覇。この活躍が目にとまりSCOアンジェと17才でプロ契約した。コパはランスに移籍後、リーグ制覇2回、欧州チャンピオンズカップの始まる前に存在した1953年のラテン選手権ではACミラノを3-0で一蹴し、翌年にはサントスとの間で行われたインターコンチネンタルカップも制覇する。欧州チャンピオンズカップが始まる前年のラテン選手権では準優勝した。
1954-55、1955-56とリーグを連覇し、真の欧州の王座を決める最初の欧州チャンピオンズカップが行われたのは1956年。一回戦でデンマーク代表のAGFアールスを下し、準々決勝では2年前のワールドカップ・スイス大会の準優勝メンバーをそろえたハンガリーのボロス・ロボゴスとの死闘を制す。準決勝ではスコットランドのヒベルニアンを一蹴した。6月13日のパリでの決勝に進出したランスは、レアル・マドリッドと壮絶な点の奪い合いを演じるが、3-4で逆転負けしてしまう。そして主力のコパもマドリッドに移籍したのだった。
■一時代を築いたランスも低迷期に
しかし、名将アルベール・バトー監督の下、ジュスト・フォンテーヌ、レオン・グロバキー、ロベール・ジョンケなどを揃え、1957-58のシーズンはリーグとカップの二冠を達成。1958年のワールドカップ・スウェーデン大会は、ランスにとっては誇るべき大会となる。まず魔術師と言われたバトーがコーチになり、8人の選手が代表入りした。昨年のワールドカップ・フランス大会には多国籍集団FCバルセロナから13人の選手が出場したが、フランスのクラブからフランス代表に8人もの選手を送り出すことは、今後も極めて珍しいであろう。
この8人のうち最も活躍したのが得点王となったフォンテーヌであり、1大会13得点(6試合)はいまだに破られていない記録である。また、準決勝では17歳の新星ペレの大活躍の前に2-5と屈するが、精神的にタフではないと言われるフランス代表が歴史に残る魂を感じさせた試合であった。その象徴はランスの名CBジョンケ。腓骨を骨折しながら90分間ピッチに立ち続けた。バトーは「負けはしたが、選手は全力を尽くした」と賞賛した。アルジェリア独立運動が燃え盛り、第四共和制が終わろうとし、シャルル・ドゴールが大統領となるという激動の時代に、「強いフランス」を実現したのがこのランス8人衆を軸としたスウェーデンでの「ブルー」であった。
そして1959年6月3日にランスはリベンジのチャンスを得る。舞台はシュツットガルト、しかし、「エル・ブランコ」の前に再び0-2と苦汁を飲むこととなる。欧州レベルでの活躍はこれが最後となり、1964年には2部落ち。以後低迷が続き、1977年にフランスカップ決勝に進出(1-2でサンテチエンヌに敗れる)したのを最後に目立った活躍はなくなり、90年代になるとチームは3部に陥落。財政的な問題もあり、1992年には「スタッド・ド・ランス・シャンパーニュ」として再出発。栄光に別れを告げ、プロチームを断念してアマチュアチームのみの地道な活動を続けた。
■ランスの復活はオールドファンの郷愁を誘う
しかし、そのランスが戻ってきた。4部リーグに当たるアマチュアリーグのプレーオフで2位となり、3部リーグに相当するナショナルリーグに昇格したのである。財政的な問題も改善され、選手のプロ化も可能となった。前回取り上げたサンテチエンヌの1部復帰と並び、オールドファンの郷愁を誘う話題となった。
さてフランスで皆既日食が観測されたのは1961年以来38年ぶり。1961-62のシーズンはランスが最後のタイトルである6度目のリーグ制覇をしたシーズンである。ランスで完全に隠れた太陽が復活してくる姿を見て、名門ランスの復活を想起したフランス人は少なくはなかったであろう。