第63回 フランス人Jリーガー フランク・デュリックス

■赤い頬の名手、カンヌでキャリアを積む

 本連載の第57回で、フランス人でJリーガーとなった選手は少なく、そのほとんどは短期間で日本を離れ、しかも若くしてサッカー選手としての経歴を閉じてしまっている選手が多いことを紹介した。元Jリーガーの中で唯一プロ選手として現在も活躍しているのが、フランク・デュリックスである。
 赤い頬がトレードマークのデュリックスは、1965年10月20日にリヨン近郊で生まれ、地元のクラブに所属した後、13才からリヨンに所属する。自宅からクラブまで車で送り迎えの生活であったが、15才になって親元を離れて合宿生活を始め、成長する。19才になったときプロ契約を結ぶ。リヨンは当時まだ2部に所属しており、1部リーグでのプレーを希望していたデュリックスにカンヌが興味を示す。しかしながら、1988年3月のフランスカップで負傷、カンヌ移籍は消えたと本人も覚悟したが、カンヌとの契約に1988年5月にサインする。
 カンヌでの初試合は1989年2月のリール戦であった。ちょうどカンヌではジネディーヌ・ジダンがプロとしてデビューしたころである。カンヌでは後に監督となるルイ・フェルナンデスとのコンビで大活躍し、途中2部落ちしたこともあったが、レギュラーポジションを獲得し、UEFAカップにチームを2度導いた。日本に移籍する直前の1993-94シーズンは1部に復帰したばかりのチームを主将として統率し、6位という好成績を残した。デュリックスは全試合に出場し、選手投票のベストイレブンに選出され、フランスフットボール誌のゴールデンスター賞を受賞した。

■ベンゲルと意気投合し日本へ

 しかし思わぬ事件が待っており、これを契機にデュリックスが来日することとなる。
 1994年10月の欧州選手権予選のルーマニア戦直前に、代表候補として合宿に招集された。ところが、最終的にチームからはずされ、あこがれの「ブルー」の戦いをサンテチエンヌのジョフロワ・ギシャールのスタンドで見たデュリックスは、フランスサッカー界に失望する。
 この失意のデュリックスに電話をかけてきたのがモナコの監督であったアルセーヌ・ベンゲルである。ベンゲルもまた失意の秋を迎えていた。モナコで安定した成績を残していたベンゲルはバイエルン・ミュンヘンからオファーを受けるが、これを断り、久々のタイトル獲得に向けて1994-95のシーズンに入る。しかし皮肉なもので、チームは極度の不振に陥り、ベンゲルは更迭される。
 そこで、新天地を求めるベンゲルとデュリックスは意気投合。ベンゲルが名古屋のコーチに選んだボロ・プリモラックはカンヌの選手と監督の経験があり、デュリックスを高く評価していた。
 1995年1月28日、カンヌでの最終戦、地元のファンは異国に傷心で旅立つデュリックスに惜しみない拍手を送った。当時の監督サフェット・スシッチは、大がかりなセレモニーの後このようにつぶやく。「もしデュリックスがいなければ来季の欧州三大カップ出場は保証できない」。史上最年少で世界選抜入りした天才ゲームメーカーの悪い予感は的中、リーグで2位につけていたチームは4か月後のリーグ終了時には7位に落ち欧州への切符を失った。

■名古屋グランパスの躍進に貢献するも、日本を離れることに・・・

 さて、デュリックスにとって日本は驚きの連続であった。1995年といえばまだJリーグの人気は健在、名古屋のホームスタジアム瑞穂陸上競技場は毎試合3万人の観衆で埋まっていた。試合に負けると大騒ぎするファンと、負けても悔しさを感じない同僚選手の落差に彼は愕然とする。自分で自分の鞄を持たず、毎日車で送り迎えされる選手との違和感を感じ始める。また、練習や試合以外で町に出ると見知らぬファンが寄ってきて、心の休まる間もない。フランスでベストイレブンに選出されたときにもこのようなことはなかった。
 このストレスをデュリックスはグラウンドの上で発散することにする。良き理解者であるベンゲルは、デュリックスをチームとのメッセンジャー役にする。またスシッチの後継者といわれるドラガン・ストイコビッチとも意気投合。彼らはそれまで下位低迷を続け、移籍時に最下位だった名古屋を意識改革させる。最初のシーズンとなる1995年の前期は4位、後期は2位と大躍進。1996年1月1日の天皇杯決勝では広島に3-0と完勝、デュリックスにとって初めてのタイトルとなる。1996年のシーズン開幕直前のスーパーカップも獲得、1シーズン制となった1996年のリーグ戦も2位となり、黄金時代を築いた。
 しかし、リーグ戦終了後の天皇杯で敗れたとき、日本生活を2年で終え、フランスに帰することを決意する。その理由はやはり精神的なものであった。日本には家族を同伴し、180平方メートルという超高級マンションが用意されたが、家族はなかなか日本の生活になじめず、妻ナタリーと三人の娘は帰国したがった。さらにJリーグの過密スケジュールによって家族と会う機会が少なくなり、家族と外出すればファンやマスコミに追い回される。しかも「フランス代表」と間違って報道される。デュリックスにとってフランス代表と言われることは名誉ある間違いではなく、悪夢のような辛い思い出なのである。ボリやパッシ同様、デュリックスもバランスを失ったのである。

■スイスのクラブを経て、5年ぶりにフランスに帰郷

 デュリックスは、2シーズンでリーグ出場72試合、16得点という成績で日本を離れる。帰国時はシーズン途中ということもあり、古巣のカンヌでトレーニングを積む。そして冬のバカンス中にスイスのクラブチーム、セルベット・ジュネーブの監督ギー・マルテスから連絡があり、契約を結ぶこととなる。同じ年金リーグと言われても日本とは違う環境がデュリックスをよみがえらせた。また、ちょうどフランスの契約型テレビ局のカナル・プルスがセルベットの経営に乗り出し、若手選手の補強などビッグクラブへの道を歩み出した。
 平均年齢24才という若いチームの中で背番号6のデュリックスはチームの柱となり、初年度の1997-98は2位、そして昨季は17度目のスイスチャンピオンとなる。デュリックスにとって初めてのリーグ戦制覇であった。けがのため今シーズンは出遅れ、せっかく出場したチャンピオンズリーグでは初戦でオーストリアのシュトゥルム・グラーツに敗退、敗者が出場するUEFAカップ1回戦でもギリシャのアリス・サロニカに敗退した。
 そして、ミレニアムを迎えたばかりの今年はじめ、デュリックスはフランスリーグ2部中位のソショーに移籍した。実に5年ぶりの帰郷である。かつてカンヌのルイ・フェルナンデス監督は「カンヌではフランク・デュリックスはまさにラウドルップだった。速く見て、速く動き、速くパスをした」と評していた。フランスリーグで5年ぶりにその勇姿を見ることができるのである。

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