コンフェデレーションズカップ2001(1) 日本対戦国コラム ~カメルーン~
「不屈のライオン」の輝かしい戦績
「不屈のライオン」――これがカメルーン代表のニックネームである。1982年のワールドカップ・スペイン大会で世界のひのき舞台にデビューし、90年イタリア大会、94年アメリカ大会、98年フランス大会ではコンスタントに本大会へ出場。特に90年大会では開幕戦で前回優勝のアルゼンチンを破り、準々決勝まで進出してイングランドに惜敗している。
アフリカ予選は、世界のサッカーファンが欧州選手権に注目していた昨年6月にすでに始まっている。グループAのカメルーンは初戦でリビアに乗り込み3-0と快勝。以後アンゴラ、トーゴ、ザンビア、リビアをいずれも完封で下し、5試合が終了した時点で5戦全勝、得点10で無失点という完ぺきな戦いぶりだった。
5月6日にはグループ2位のアンゴラとの直接対決があり、敵地ルアンダで本大会出場一番乗りをかけた戦いとなったが、欧州のリーグ戦などと日程が重なった主力4人を欠いたこともあり、後半に2点を取られて敗北。ワールドカップ出場決定は6月末のトーゴ戦以降に持ち越された。
近年、躍進著しいカメルーン・サッカーであるが、その歴史は意外な一面を持つ。ポルトガル人が15世紀に入植したカメルーンは欧州列強の支配にさらされる。その後カメルーンにサッカーが伝来したのは1880年代のことであった。
当時、カメルーンはドイツが植民地化を企てており、そのためサッカーはドイツ人によって伝えられることになった。第一次大戦後にはアフリカの勢力地図が変わり、カメルーンはフランス領とイギリス領となり、フランスが植民地支配の中でカメルーン・サッカーに影響を与えていったのである。
カメルーンが代表チームを初めて結成したのは1950年のことで、フランスに遠征してプロのユースチームやアマチュアチームと対戦。60年代半ばになると、中央アフリカのフランス語圏の国(ザイール、中央アフリカ、ガボン、コンゴ)とトーナメントを開催するようになった。 当時のカメルーンは、クラブレベルではアフリカ・チャンピオンズカップ、アフリカ・カップウィナーズカップなどをしばしば制覇していたが、代表チームはエジプト、南アフリカなどアフリカサッカーの伝統国の力をしのぐことはできなかった。
代表チームの飛躍は80年代のこと。フェリックス・トニー・エムボックが青少年・スポーツ大臣に就任し、サッカー協会の会長にエムゾア・アムグが任命されてからである。カメルーンの代表チームのニックネームを公募し、「海老(海岸には多くの海老がおり、ポルトガル語の海老という単語がカメルーンの語源である)」「黒い悪魔」「さそり」などのアイデアが寄せられたが、審査の結果「不屈のライオン」に決定した。
「不屈のライオン」は82年にワールドカップに初出場するだけではなく、84年にアフリカ選手権で初優勝し、88年にも2度目の優勝を飾っている。2000年にはアフリカ選手権で3度目の優勝を飾り、トロフィーを永久保持することになった。
カメルーンの強さはアフリカ独特の身体能力の高さに加え、サッカー協会のマネジメント能力がアフリカの中では高いからである。カメルーン出身で他国のナショナルチームに所属している選手が思い当たらないことを考えてみればよく分かる。ちなみにテニスのヤニック・ノアはカメルーン出身であるが、選手、監督としてフランスチームで活躍している。