アフリカ唯一のW杯初出場国――セネガル代表 未知なる「ライオンズ」の正体とは(後編)

旧宗主国フランスとつながりの深いセネガル
選手、監督ともにフランスで成長し、W杯初出場がもたらされた

 セネガルはフランスと政治、経済などの多方面で非常につながりの強い国であり、サッカーの世界でもフランスとの関連なしにワールドカップ初出場は成し得なかったであろう。
 セネガル出身の選手の多くはフランスリーグに所属している。まずキャプテンのアリウ・シセはパリサンジェルマンに所属している。2000-2001シーズンはわずか10試合にしか出場しておらず、昨年10月に日本代表がパリで親善試合を行った際もアフリカ選手権の予選に出場していたため、日本の皆さんにその勇姿を見せることはできなかった。
 フランスリーグに所属するセネガル代表の選手で最も活躍をしたのはストラスブールに所属しているハビブ・ベイエであろう。リーグ戦の34試合中31試合に出場し、ストラスブールの右サイドバックを確保している。
 ベイエに続くのはスダンのムッサ・エンディアエ、サリフ・ディアオ、ランスのフェルディナン・コリー、エル・ハジ・ディウフ、パプ・サール(サンテエチエンヌから今季ランスに移籍)などであり、30試合近くに出場し、クラブの中心選手として活躍している。
 ランスはコリー、ディウフ、サールと3人のセネガル人選手を抱え、今季リーグも3連勝と好スタートを切った。ディウフは昨季8得点と、チームの中でも在仏セネガル人選手の中でも最多得点であり、スダンのエンディアエが7得点でこれに続く。
 ディウフはFWの選手でありながら反則が多く、警告を9回受け、退場処分も1回ある。在仏セネガル人選手の中で警告数は最多であり、ほかの選手は退場処分を受けていない。逆に出場数が最多のベイエはDFでありながら、31試合出場で警告はわずかに3回と非常にソフトな選手である。
 またこれらのセネガル国籍の選手以外に日本の皆さんがよくご存じなのは、かつて中田英寿のチームメイトであったペルージャのイブラハム・バである。セネガル出身のバはフランス代表入りし、1998年の地元でのワールドカップ開催直前に代表から外される。パリサンジェルマン、オセールなどで欧州カップでの活躍の記憶も新しいウマール・ディアンもダカール出身である。
 また、1980年代後半にパリサンジェルマンのキャプテンとしてジョエル・バツ、サフェット・スシッチらとともにチームを支えたウマール・センもセネガル出身であり、今回の代表チームを支援している。
 そしてチームを率いるメツ監督は選手としてダンケルク、アンデルレヒト(ベルギー)、バランシエンヌ、ニース、リール、ボーベと渡り歩き、フランスリーグ1部で約250試合に出場した実績を持ち、五輪代表にも2試合出場経験がある。そしてボーベで監督としてデビューし、1部のリール、2部のバランシエンヌ、スダン、バランスと3チームで監督を務めてきた。選手からの人望も厚く、アフリカ選手権の予選で最下位に苦しんでいたチームをアフリカ選手権だけでなく、ワールドカップも本大会出場に導いたのである。

国際政治を反映したアジア遠征の歴史
14年前の屈辱を日本の地で晴らしたい「ライオンズ」

 代表選手の多くはフランスリーグで活躍しており、代表監督もフランス人であり、旧宗主国であるフランスの影響は強い。しかしながら、代表チームレベルでの対戦歴はなく、むしろ代表チームはアジア諸国との対戦経験がある。70年代には中国と3回対戦している。最初は72年11月に中国が、ギニアに引き続いてセネガルを訪問した際のものである。ギニアと1-1で引き分けた中国をダカールで迎え撃ったセネガルは、0-0で引き分けている。74年にはセネガルが中国に遠征し、2-5と敗れている。また、翌年にもセネガルは中国を訪問し、2-4と連敗を喫している。
 この中国との交流は当時の中国の外交政策に合わせたものであり、国際政治の舞台に姿を現した中国が独立後10数年を経過し、社会主義に目覚めつつあるアフリカ諸国との交流を深める政策をとったことが如実に表れている。
 一方、日本には87年のキリンカップで訪問している。この年のキリンカップに招待されたチームはセネガルのほか、ブラジルのフルミネンセ、イタリアのトリノである。当時の日本は保守政党の自由民主党が低落傾向にあり、2年後の参議院選挙で社会党が大躍進をする前夜にあたり、ブラジル、イタリアとも社会主義政党の成長が著しい時代であった。このように冷戦時代は各国の政治情勢がサッカーの世界にも微妙に影響していた。セネガルは札幌円山競技場で第1戦を戦う。初戦の相手は後に史上最高の移籍金で話題になるジャン・ルイージ・レンティーニを擁するトリノで、セネガルは1-3と初戦を落とす。続く第2戦は広島県営陸上競技場で地元日本との対戦。日本は前半に原博美、後半に松山吉之がゴールを奪うが、前後半ともンジャイが同点ゴールを決め、結局2-2のドローとなる。そして最終戦は神戸中央球技場でフルミネンセと対戦する。しかしセネガルはこの試合で0-7と大敗し、結局最下位に終わってしまった。
 そして現在――ライオンたちは14年前の日本での屈辱を晴らすべく、来年の本大会に向けて牙(きば)を研いでいるのである。(了)

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