第6回 フランス、アルジェリアと初対戦(2) 伝説の強豪、アルジェリア民族解放戦線チーム

■1958年4月13日 突然の10人の選手連行

 独立以来初めてフランスと対戦することになるアルジェリア代表であるが、実はその歴史はアルジェリア戦争下にさかのぼることができる。フランス代表が戦争中に唯一ワールドカップに出場したのは1958年のスウェーデン大会である。ワールドカップを2か月後に控えた4月に事件は起こった。当時、アルジェリア出身の選手が数多くフランス代表やフランスリーグで活躍していたが、土曜日の夜にリーグ戦を終え、代表選手は水曜日のスイスとの親善試合に向けて月曜日に招集される、という休息日の13日の日曜日にアルジェリア民族解放戦線はフランスリーグに所属していた10人のアルジェリア人選手をアルジェリア民族解放戦線チームを立ち上げるためにアルジェリアに連行してしまったのである。この中にはフランス代表のムスタファ・ジトゥニやアブデラジ・ベンティフール、アンジェの攻撃の中心であるアマール・ルーアイ、後にアルジェリア代表の監督になるモハメッド・ブーメズラグなどが含まれていたのである。
 このフランスからのアルジェリア人選手の引き抜きは実は数カ月前から綿密に計画されたアルジェリア民族解放戦線の一大プロパガンダであった。独立を目指して戦っているアルジェリア人にとってアルジェリア出身の選手を宗主国のフランスから連れ戻し、アルジェリアのチームを結成することはアルジェリア人民をどれだけ鼓舞することにつながるかわからない。

■東側諸国と対戦を重ね、強豪ユーゴスラビアにも大勝

 このアルジェリア民族解放戦線チームはその後選手を追加し、約25名のフランスリーグの選手で構成された。フランス協会は他国のチームがアルジェリア民族解放戦線チームと対戦することを禁じるようにFIFAに申し立てた。しかし、そのような政治的な動きにも負けず、アルジェリア民族解放戦は5月3日にチュニジアと最初の試合を行い、なんと6-1という大差で初陣を飾るのである。このアルジェリア民族解放戦線チームは戦火のアルジェリアを避け、そのほとんどの試合をアウエーで戦うことになる。しかも彼らを受け入れてくれる国は冷戦突入前後の東側の国であり、ユーゴスラビア、ソ連などの東欧諸国からアジアでは北ベトナム、イラクなどであった。
 伝説の試合となったのはワールドカップ・チリ大会予選が世界中で行われた時期の1961年3月19日のベオグラードでのユーゴスラビア戦である。1961年のユーゴスラビア、と言えば日本のサッカーファンの方は懐かしく思い出されるであろう。日本はチリに向けて高橋英辰監督の下で欧州遠征などで強化を図ったものの、宿敵韓国との戦いに敗れる。そして日本を破った韓国はアジアの代表としてプレーオフでユーゴスラビアと最後のチリ行きのチケットを争ったのである。ベオグラードの試合で先勝したユーゴスラビアはソウルでの試合は若手で編成しながらも力の差を見せつけ、楽勝。そのユーゴスラビア代表がソウルで本大会出場を決めた帰路に東京に立ち寄り、11月28日という火曜日の昼間に国立競技場で日本代表と親善試合を行ったのである。ソウルでの試合の疲労もあり、スコアこそ1-0であったが、全く日本は手も足も出ず、この試合で日本人は「ワールドカップは遠くにあるもの」という固定観念が生まれてしまったのであろう。日韓を楽々連破したユーゴスラビアであったが、そのユーゴスラビアもホームでアルジェリア民族解放戦線チームに1-6と屈したのである。アルジェリア民族解放戦線チームはアルジェリアが独立するまでの4年間に91試合戦い65勝13分13敗、得点385、失点127と堂々たる成績を残している。彼らの活躍が民族独立のために戦ったアルジェリア人たちの心の支えとなったのである。

■アルジェリア人選手のフランス代表からの離脱

 しかし、彼らアルジェリア民族解放戦線チームのメンバーが政治的に利用されたこともまた事実である。少なくとも彼らはスウェーデンでのワールドカップに出場できなかったのである。代表チームの守備の要であったジトゥニは自らがフランスから連行され、ワールドカップに出場できなくなったことをラジオを通じて知ったときは非常につらかったという。
 スウェーデンではジュスト・フォンテーヌが得点王に輝いたが、フランスイレブンは神様ペレの出現によって準決勝で敗退することになってしまう。もし、青いユニフォームを着たアルジェリア人選手がいれば、フランスのサッカーの歴史は変わっていたかもしれないのである。
 そして2001年10月6日、新聖地、スタッド・ド・フランスでかつてフランス協会が世界に向けて対戦禁止を呼びかけたアルジェリア代表をフランス代表が迎え撃つことになり、歴史が変わろうとしているのである。(続く)

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