第2256回 ベルギーに競り勝ち、16年ぶりのデビスカップ優勝 (1) サッカーと同じ1904年にベルギーと初対戦

 6年前の東日本大震災、昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1904年にフランスとベルギーがデビスカップに参戦

 ヤニック・ノア監督率いるフランスのデビスカップチーム、日本、英国、セルビアを破り3年ぶり18回目の決勝進出を決めたことは本連載第2226回から第2232回で紹介した通りである。そしてベルギーとの決戦がいよいよ11月24日から始まった。
 さて、フランスの対戦相手となるベルギーについて紹介しよう。これまでのデビスカップで日本はベルギーとは対戦したことがないことから、ベルギーのテニスは日本のファンの皆様にはなじみがないであろう。しかし、他のスポーツ同様、ベルギーのテニスの歴史は古く、デビスカップに初めて参戦したのは1904年、フランスと同じ年である。

■1980年代まで続く大会形式の最初の大会となった1904年大会

 この1904年のデビスカップに参加した国は4か国である。1900年に始まったデビスカップは英国と米国しか参加していなかったが、3回目(1901年は開催されず)は米国が出場しない代わりに、新たな顔ぶれとしてフランス、ベルギー、オーストリアの3か国が加わった。それまでは米英の対抗戦であったが、この1904年から前年優勝国に対し、それ以外の国の代表がワールドグループという形で争い、その優勝国が前年優勝国に挑戦するという1980年代まで続く大会形式が始まった。1903年の優勝国は英国、その英国への挑戦権をかけて、フランス、オーストリア、ベルギーが争った。まず1回戦はベルギー-オーストリア戦であった。ところがオーストリアの棄権により、ベルギーが勝ちあがる。ワールドグループ決勝は6月末にフランスとベルギーとの間で争われた。このフランス-ベルギー戦はどちらかのホームで行われるのではなく、英国で行われ、勝者がその翌週の7月初めに英国と対戦するという形式であった。

■フランスのテニスの黎明期に活躍したマックス・デキュギス

 記念すべきフランスのデビスカップ初挑戦のコートに立ったのはマックス・デキュギスである。デキュギスはフランスのテニス界の生んだ最初のレジェンドであろう。1900年には18歳で地元開催のパリオリンピックに出場し、米国人選手と組んだ男子ダブルスで銀メダルを獲得する。その後は全仏オープン(当時はまだローラン・ギャロスと呼ばれていなかった)で優勝を重ね、全英オープンでも男子ダブルスで優勝を飾っている。ところが欧州を第一次世界大戦の戦火が襲い、欧州のスポーツ大会は中断を余儀なくされる。平和が訪れた1902年のアントワープオリンピックではスザンヌ・ランランとペアを組んだ混合ダブルスで優勝、熊谷一弥と柏尾誠一郎が準優勝した男子ダブルスでは銅メダルを獲得している。第1ラバーのデキュギスはオーストリア選手をリードしたところで相手が棄権、記念すべき初勝利をあげる。デキュギスはダブルスでも1勝をあげる。2勝2敗となり、英国へチャレンジする切符は最終の第5ラバーに委ねられた。フランスの第5ラバーはデキュギス、ベルギーはウィリーことウィリアム・ルメールバルツェデルマル、名字からわかるとおり貴族の出身である。デキュギスは第1セットを落としたものの、第2、第3セットを連取、王手をかけたが、第4セットと第5セットを落とし、記念すべきデビスカップ初めての対戦は2勝3敗で敗れたのである。

■サッカーでも初めての代表戦は1904年のベルギー戦

 翌週に行われた決勝では英国がベルギーを5勝で寄せ付けず、タイトルを守ったが、この1904年のフランスとベルギーの初対戦は興味深い時期に行われている。本連載の読者の方であれば、1904年という都市がどのような年であるかよくご存じであろう。それはサッカーのフランス代表が初めて国際試合を行った年である。サッカーのフランス代表の記念すべき最初の試合はこの都市の5月1日に行われたが、その相手がベルギーである。この試合は3-3のドローに終わり、その翌月末にロンドンで行われたテニスの試合でフランスは敗れている。
 サッカーは当時は定期戦としてフランスはベルギーと対戦したが、1905年、1906年と連敗、ようやくフランスが初勝利をあげたのは1907年のことである。そしてテニスは次の対戦でフランスが勝利する。15年後の1919年、この時もデキュギスがエースでシングルスとダブルスでそれぞれ1勝をあげたのである。(続く)

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