第257回 宿敵ドイツと対戦(3) 今なお暗い影を引きずる第二次世界大戦
■アドルフ・ヒトラーが仕掛けた第二次世界大戦
第一次世界大戦はベルダンの戦いと言う仏独史上に残る大激戦があり、多くの犠牲者が出たが、1939年から始まった第二次世界大戦はそれとは全く違う戦いとなった。第一次世界大戦後、敗戦国のドイツは深刻なインフレに悩む。そこの登場したのがアドルフ・ヒトラーである。一方、戦勝国のイタリアも政情不安に陥り、ベニト・ムッソリーニが出現する。この2人の枢軸関係が欧州を再び戦渦に巻き込んだのである。
■パリ入城、ビシー政権の発足
1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に対し、3日に英国とフランスがドイツに宣戦を布告し、6年にわたる戦争が始まった。ところがフランスは防衛戦術を取り、当初西部戦線は穏やかであった。ところが突然1940年5月10日にドイツが西部戦線を進攻するや否や、1940年6月14日にパリ入城、そして22日にフランスはドイツに降伏してしまう。パリ北方にあるコンピエーニュの森の列車内で休戦協定が締結されたが、この列車は第一次世界大戦の休戦協定の際に使用されたものである。ドイツのフランスに対する並々ならぬ執念が感じられる。
この降伏時のフランスの首相は第一次世界大戦のベルダンの戦いでの英雄、前回の本連載でも紹介したアンリ・フィリップ・ペタン元帥である。ペタンがドイツと締結した休戦協定により、フランスの北半分はドイツの軍事政権下におかれ、南半分はビシーに臨時政府をおき、ペタン元帥が統治した。サッカーの世界でも1940年以降のフランスリーグはドイツの軍事政権下の北ゾーンとビシーの臨時政府下の南ゾーンに分かれて行われた。しかしこのビシーの政権はドイツの傀儡政権であり、対独協力政権であり、普仏戦争以来続いた第三共和国憲法を廃止し、第三共和制は崩壊した。
■シャルル・ド・ゴールのレジスタンス運動とパリ解放
フランス本土が完全に魂を失ったそのとき、シャルル・ド・ゴールはドーバーを渡り、ロンドンで自由フランス政府の樹立を宣言し、ナチス・ドイツに対する徹底抗戦、すなわちレジスタンスをラジオで呼びかけたのである。フランス国内ではナチス・ドイツに対するレジスタンス運動が活発化し、短期決戦での勝利を目論んでいたドイツ軍の足元をすくう。
フランスの降伏によってドイツの西側での唯一の敵国は英国となった。英国はチャーチルが首相となり、ロンドン大空襲に耐えぬく。そしてついにドイツ軍の上陸を阻止したのである。
フランスの人民を救ったのは英国だけではない。大西洋の彼方の米国もアイゼンハワー総司令官の指揮のもと、1944年6月6日に100万人を動員したノルマンディー上陸作戦を決行、これが見事に成功し、4年間ドイツに占領されていたフランスの大地に上陸し、連合国軍は一路パリを目指したのである。パリに進撃する連合国軍に鼓舞されたフランス人民のレジスタンス活動はますます活発になる。そして8月19日にはパリで市民の蜂起が起こり、25日にはついに連合国軍がパリに入り、パリ解放、英雄ド・ゴール将軍もパリに戻り臨時政府を樹立したのである。ここでフランスにとっての第二次世界大戦は事実上終結する。
■フランス史に残る汚点となったユダヤ人迫害
結局、第二次世界大戦はフランスにとってはドイツとの戦いであったのである。そしてこの戦いはフランスとドイツの間にそれまでの戦い以上の困難な関係を生み出してしまった。第一次世界大戦が物理的な戦いそのものであるならば、第二次世界大戦のドイツとの戦いは心理的なものである。
第一次世界大戦の英雄が対独協力者として戦後終身刑となり、英雄伝説の崩壊は国民にショックを与えた。自由・平等・博愛と言うフランス革命以来の精神を否定したビシー政権下で多くのユダヤ人が犠牲者となった。フランスの歴史において忘れてはならない汚点であろう。ビシー政権は様々な分野でドイツに協力してきたが、フランス革命の精神を否定したことが、フランス人民のレジスタンスの活動を支えていたと言えよう。第一次世界大戦でいち早くドイツに降伏したポーランドは臨時政府をパリにおき、多くのユダヤ人が亡命してきた。本来ユダヤ人を救うべきフランスがユダヤ人を迫害したのである。この歴史的事実は単純に戦争の敵国のドイツに対する感情だけではなく、フランス人自らが起こした過ちであり、自身の葛藤となって今なお尾を引いているのである。(続く)