第2651回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (9) 開催国アルゼンチンに敗れ、一次リーグ敗退

 平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■アルゼンチンに敗れれば一次リーグ敗退が決定するフランス

 12年ぶりのワールドカップ本大会、フランスは6月2日の昼間に行われた開幕戦でイタリアの逆転負けを喫した。同日の夜には開催国アルゼンチンがハンガリーと対戦、アルゼンチンが2-1と逆転勝ちした。
 フランスの第2戦は6月6日の夜にメイン会場であるブエノスアイレスのモヌメンタル競技場で開催国アルゼンチンと対戦する。この日の昼にはイタリアがハンガリーを下しており、勝ち点を4に伸ばす(当時の勝ち点は勝利は2点)。すなわち、アルゼンチンがフランスに勝利すると勝ち点4のイタリアとアルゼンチンが二次リーグ進出、勝ち点0のフランスとハンガリーが敗退となる。

■アルファベット順に背番号をつけたアルゼンチン、14番を拒否したミッシェル・プラティニ

 この大会で優勝することとなるアルゼンチンはセザール・メノッティ監督が独創的なチーム作りをする。発足したばかりの軍事政権から優勝を厳命されたメノッティは、国内のクラブを丹念に回り、若手選手を発掘した。代表選手を欧州のクラブへの移籍を禁じ、国内で合宿を重ねて本大会に臨んだ。代表経験が二桁あるのは数人というフランス同様の若いチームであった。
 さらにメノッティ監督は選手の背番号を名字のアルファベット順につけた。したがって正GKのウバルド・フィジョルは背番号5となり、背番号1はMFのノルベルト・アロンソがつけた。そして偶然にもマリオ・ケンペスがエースナンバーの背番号10となった。背番号についてはフランスのミッシェル・イダルゴ監督もすんなりと決めたわけではなかった。イダルゴ監督が22人の選手に割り当てた中で2人が番号の希望を申し出てきた。まず、ジェラール・ジャンビオンは偶数の番号を希望したことから4番をつけることになった。そして、プラティニにはイダルゴ監督は14番を準備していたが、プラティニは1974年の西ドイツ大会のオランダ代表のヨハン・クライフと比較されることを望まず、番号の変更を申し出て、15番となった。14番はマルク・ベルドルがつけることになった。

■好調な選手を起用し、フォーメーションも変えたミッシェル・イダルゴ監督

 イタリア戦後の練習でイダルゴ監督はストッパーのクリスチャン・ロペスの状態が良いことに気づき、アルゼンチン戦の先発メンバーに起用する。一方、クリスチャン・ダルジェ、ジャンビオン、ギルーの状態が思わしくないこともあり、アルゼンチン戦の先発メンバーは、GKはジャン・ポール・ベルトラン・ドマン、DFはマキシム・ボッシ、ロペス、パトリック・バティストン、マリウス・トレゾール、MFはプラティニ、アンリ・ミッシェル、ドミニク・バテネイ、FWはディディエ・シス、ドミニク・ロシュトー、ベルナール・ラコンブと4人が入れ替わった。また、ロペスとトレゾールは欧州スタイルのマンツーマンではなく、南米スタイルのゾーンディフェンスでアルゼンチンのエースのルーケとケンペスを押さえた。

■最高のパフォーマンスを見せたが、不可解な判定に泣いたフランス

 満員の大観衆も敵に回したフランスであるが、アルゼンチンでの3試合で最高のパフォーマンスを見せた。しかし、この大会は後々まで語り継がれるホームアドバンテージの大会であった。アルゼンチンは一次リーグ3試合をこのモヌメンタル競技場で戦ったが、大会前からこのスタジアムで練習していた。一方のフランスは前日にこの競技場で練習することもかなわなかった。そして事件が起こったのは前半終了間際の45分、スイス人の主審がペナルティエリア内でトレゾールのファイルをとった。不可解な判定であったが、アルゼンチンのパサレラのPKが成功、フランスの抗議は大観衆の歓声で取り消される。
 後半に入り、プラティニがゴール前のラコンブからのパスを受けて同点ゴールを決める。将軍プラティニのワールドカップ初ゴールである。しかしながら、73分にアルゼンチンのルーケが決勝点を奪う。フランスはその後も不可解な判定に泣かされ、1-2で敗れる。この瞬間、フランスとハンガリーの一次リーグ敗退が決定したのである。(続く)

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