第2660回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (18) フランスのGKの歴史を変えたジョエル・バツ
平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■ミッシェル・イダルゴが見出した選手が支えた欧州選手権優勝
ミッシェル・イダルゴ 監督にとって最後の国際大会となった1984年の欧州選手権、前回の本連載で紹介した通り、圧倒的な攻撃力で優勝した。この優勝の原動力は9得点をあげたミッシェル・プラティニを含めて6年前、2年前のワールドカップで国際舞台の経験を積んできたパトリック・バティストン、マキシム・ボッシ、プラティニ、ベルナール・ラコンブ、ディディエ・シス、ドミニク・ロシュトーの6人であった。さらにスペイン大会を経験したアラン・ジレス、ジャン・ティガナ、マニュエル・アモロスを加えた20代半ばから30代になったばかりの選手が2年後のメキシコ大会でも活躍する。
■2回のワールドカップ出場でも見いだせなかったGK
他方、2回のワールドカップを経ても複数大会で活躍する選手が見いだせなかったのがGKである。そこにフランスの守護神となる選手がようやく見つかった。ジョエル・バツである。日本代表のGKコーチとして招聘されたこともあるから、よくご存じの読者の方は多いであろう。
ジャン・リュック・エトリを正GKとして4位に入ったスペインワールドカップの後、イダルゴ監督は後任のGKとしてジャン・ピエール・タンペを発掘する。1982年10月のオランダ戦から翌年5月のベルギー戦まで5試合連続で出場する。タンペの出場した試合では3勝2分、3失点と好成績であり、シーズン終了後にはUEFAカップに出場するRCランスに移籍する。
■1983-84シーズン到来とともに代表にデビューしたジョエル・バツ
ところが、代表チームでは新シーズンに新たなGKが現れた。それがオセールに所属していたバツであった。バツは年代別代表からの抜擢であったが、シーズン最初の試合であるデンマーク戦で代表にデビューする。デビュー戦は3失点し、黒星であったが、バツはこの後10月と11月の親善試合にも出場する。いずれも引き分けで、初めて無失点に抑えたのは3試合目のユーゴスラビア戦、初勝利は欧州選手権イヤーになって最初の試合となる4戦目のイングランド戦、ここから素晴らしい成績を残す。
欧州選手権にむけて月に1試合のペースで親善試合を行うが、バツがすべての試合に出場する。オーストリア(後半の62分に負傷退場)、西ドイツ、スコットランド相手にいずれも完封勝ちして本大会を迎える。本大会の初戦のデンマーク戦、第2戦のベルギー戦も完封勝利、グループリーグ最終戦のユーゴスラビア戦で失点するが、前年のユーゴスラビア戦以来6試合連続無失点であった。欧州選手権では5試合すべてにフル出場し、ユーゴスラビア戦以外に準決勝のポルトガル戦で2失点するが、優勝に貢献したのである。準決勝のポルトガル戦は再三再四ピンチを迎え、バツのスーパーセーブがなければフランスの決勝進出はなかったであろうし、決勝のスペイン戦でもバツの活躍は目立った。
デビューしてから、10か月で欧州の頂点に立ったバツであるが、デビュー以来すべての試合で先発したことは特筆に値するであろう。
■1986年ワールドカップでの活躍、GKとして初めて50試合に出場
欧州選手権で優勝し、監督がアンリ・ミッシェルに代わってからもバツはフランス代表のゴールを守り続ける。欧州選手権の後は1986年のワールドカップ予選が始まるが、全試合に出場し、さらにそれ以外の親善試合もフル出場する。1986年のメキシコでのワールドカップ、準々決勝のブラジルとの死闘の主役はバツであった。後半には後の日本代表監督となるジーコのPKを止め、PK戦では競り勝つ。結局、ワールドカップでは最後の3位決定戦でポジションをアルベール・ルストに譲り、デビュー以来の連続出場記録がここで途絶えた。
さらにバツは1988年の欧州選手権予選も8試合中7試合に出場、そして代表キャリアの最後となる1990年ワールドカップ予選も全8試合に出場し、フランス代表出場回数はGKとして初めて50を数えた。バツの後、フランスは名GKを輩出している。GK不毛の国と言われたフランスを変えたバツはイダルゴが見出した最後のタレントといえるであろう。(続く)