第2707回 パリサンジェルマンとリヨン、準決勝進出 (8) リヨンとジョゼ・アルバラーデ競技場
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■昨季のチャンピオンズリーグではリヨンの1勝1分
準々決勝では、リヨンはマンチェスター・シティ(イングランド)が対戦するが、2年連続のチャンピオンズリーグでの対戦となる。昨季はグループリーグで対戦した。リヨンの第1戦はプレミアリーグで優勝したマンチェスター・シティとのアウエーゲーム、誰しもが厳しい戦いであると思ったが、マクスウェル・コルネとナビル・ファキルのゴールで2-1と勝利する。その後、リヨンは5試合連続で引き分け、マンチェスター・シティとのホームゲームも2回リードしながら2回とも追いつかれ、引き分けに終わる。リヨンは1勝5分という成績で、マンチェスター・シティに続いて2位通過となったが、直接対決では1勝1分である。これが両チームの今までの対戦結果である。
■2004年の欧州選手権でフランスがギリシャに敗れたジョゼ・アルバラーデ競技場
試合の会場はジョゼ・アルバラーデ競技場である。スポルティング・リスボンの本拠地であり、ジョゼ・アルバラーデとはこのクラブの創始者の名前である。アルバラーデは33歳の若さで亡くなったが、死後38年経過して1956年に完成したスタジアムにその名を冠したのである。このジョゼ・アルバラーデ競技場も、2004年の欧州選手権を控え、ルッス競技場同様に新しいスタジアムに生まれ変わった。この欧州選手権でフランスは、順調にグループリーグを突破したが、準々決勝で優勝することになる伏兵ギリシャに0-1と敗れている。なお、この大会ではリヨンから第3GKのグレゴリー・クーペが登録されていた。
■アウエーゴール2倍ルールのない時代に決勝進出を阻まれたリヨン
リヨンは改装される前にこのスタジアムで試合をしたことがある。それがリヨンにとって最初の欧州カップ準決勝となった1963-64シーズンのカップウィナーズカップである。リヨンは前年のフランスカップの決勝でモナコに敗れたが、モナコがリーグも制覇したため、カップウィナーズカップに出場した。現在とは違う規則がリヨンに幸運を与えたのである。
リヨンは勝ち進み、準決勝でスポルティング・リスボンと対戦する。ホームでの第1戦はスコアレスドロー、決勝進出をかけた戦いはリスボンでの第2戦に委ねられた。ジョゼ・アルバラーデ競技場での試合は延長までもつれ込み、1-1のドローとなった。アウエーゴールの差で、リヨンが決勝進出と思われる読者の方も多いであろう、しかし、ここで現在と違う規則がリヨンに不運を与えた。当時、アウエーゴール2倍ルールはなく、2試合合計の得失点差が同じ、すなわちゼロであれば、中立地でプレーオフを行うことになっていたのである。結局、スペインのマドリッドで行われた試合でリヨンは0-1で敗れてしまい、決勝進出はならなかったのである。もし、リヨンが決勝に進出していれば、フランスのサッカーの歴史は変わっていたであろう。
そして、それから56年、リヨンはチャンピオンズリーグで優勝して、来季のチャンピオンズリーグに出場するという、当時の規定ではなかった道を通ってクラブとしての欧州カップ連続出場記録を伸ばそうとしているのである。
■リヨン生まれでリヨン育ちのポルトガル代表のアントニー・ロペス
負けたことのない相手と、負けたことのない会場で戦うリヨン、注目すべき選手が2人いる。まずは、GKのアントニー・ロペス、リヨン近郊で生まれ、下部組織からリヨン一筋の選手であるが、両親がポルトガル人であったため、ポルトガル代表となっている。両親の故国のポルトガルでの決戦に特別な思いがあるはずである。
そしてもう1人はティノ・カデウェアである。ジンバブエ代表のティノ・カデウェアは試合の2日前に兄のプリンス・カデウェアを亡くす。プリンス・カデウェアもサッカー選手であったが、現在はジンバブエを代表する指導者となり、40歳で夭折した。ティノ・カデウェアはチームを離れたが、チームメイトは兄を失ったティノのためにも勝利への意を強くしたのである。(続く)