第392回 今年最後の代表ゲーム (2) フランス・サッカーの恩人ポーランド
■移民の子弟が支えたフランス・サッカー
前回の本連載では大国にはさまれ政情が不安定な故国ポーランドを離れてフランスで活躍したフレデリック・ショパンを紹介したが、サッカーの世界でも同様である。本連載でも何回か紹介したレイモン・コパことレイモン・コパゼウスキーはポーランド移民の子供である。フランスのサッカーの歴史で偉大な選手を3人挙げよと言われれば、誰しもがコパ、ミッシェル・プラティニ、そしてジネディーヌ・ジダンの3人を挙げるであろう。この3人は活躍した時期は違うが、いずれも移民の子弟である。
■1950年代にポーランド系選手が多かった理由
コパは1950年代のフランス・サッカーを支えたが、この時期にはフランスの代表レベルのサッカー選手のうちの多くがポーランドの出身であった。サッカー・クリックの「フランス・サッカー実存主義」の第34回でも紹介したが、第一次世界大戦でフランスの産業は完全に疲弊してしまった。そしてフランスは米国と組んでポーランドの独立を支援する。ポーランドも戦火にさらされたが、ポーランドに比べてフランスの方が雇用の吸収力があり、その結果としてフランスは多くのポーランドからの移民を受け入れた。そしてその多くは北部の炭鉱地域であり、その中の1人にコパの家族も含まれていたわけである。1920年代にはポーランド移民からなるサッカーチームが30を越した。このポーランドからの移民の世代は炭鉱にも活気があり、あくまでもサッカーは余暇の対象でしかなかった。ところが彼らの子供たちの世代になると炭鉱は斜陽産業になり、サッカーを余暇の対象としてではなく、生活の手段ととらえるようになり、多くのポロサッカー選手が生まれた。炭鉱のポーランド移民の子供たちが1950年代のフランスのサッカーを支えたのである。1950年代にはフランスのプロサッカー選手の1割がポーランド移民の家族であった。
なお、第一次世界大戦後に米国にも多くのポーランド人が移住し、彼らはシカゴ近郊にその職を求めた。したがって世界中でポーランド人が最も多く住んでいる都市はワルシャワであるが、その次はシカゴであるといわれている。同じポーランド移民でもフランスではサッカーに影響を与えたが、米国では与えなかったのは、フランスへの移民が大規模な炭鉱であったのに対し、米国への移民は都市生活者が中心であったからであろう。
■フランスのクラブの所属選手が同数だった前回の対戦
このような理由により、ポーランドのサッカーはフランスのサッカーに影響を与えたが、それは現在に至るまで続いている。フランスがポーランドと最後に対戦したのは2000年2月23日のスタッド・ド・フランスでの親善試合。この段階ですでにフランス代表の選手の多くは国外のビッグクラブに所属してしまい、先発メンバーのうちファビアン・バルテス、ダビッド・トレゼゲ(以上モナコ)、シルバン・ビルトール(ボルドー)の3人だけがフランスのクラブに所属していたが、対戦するポーランドも11人のうち3人がフランスのクラブに所属しており、国際試合でフランスのクラブに所属する選手の数が対戦相手と同じになったと言うことは当時大きな話題になった。今回の親善試合にもポーランドは18人の選手を登録しているが、そのうちDFのジャセック・バクはランスに所属している。
■ポーランド戦がデビュー戦となったプチ、フェレーリ、ジレス
フランスのサッカー界にとって恩人とも言うべきポーランドであるが、実はもう1つ感謝しなくてはならないことがある。それは今までポーランドとは14回対戦しているが、そのうち9試合は親善試合である。ポーランド戦で代表にデビューし、その後大成した選手が少なくないことである。近いところでは1990年8月15日のパリでの親善試合で代表にDFとして若干19歳でデビューしたエマニュエル・プチはその後守備的MFに転向して活躍したことは説明の必要はないであろう。また、1982年8月31日のパリでの試合にはジャン・マルク・フェレーリが初めて青いユニフォームを着用している。さらに歴史をさかのぼるならば、1974年9月7日のワルシャワでの対戦にはアラン・ジレスが代表にデビューしており、その後10年以上フランス代表の中盤を支えることになった。今回の対戦でフランスはフローラン・マルーダ(リヨン)、カメル・メリエム(ボルドー)という2人の代表未経験者を招集している。彼らが第二のプチ、ジレスになるのであろうか。(続く)