第402回 マルセイユ、秋の変 (2) 不振の責任を取り、監督、会長が辞意表明
■マルセイユのオーナー、ロベール・ルイ・ドレフェス
リーグでは上位にいるものの、11月にパリサンジェルマンに連敗したマルセイユ。宿敵相手に通算8連敗となり、ファンは応援をボイコット。地元マルセイユでは2点を先行しながら、3点を奪われる逆転負け、その10日後に行われたラグビーのフランス-アルゼンチン戦の方がフランスリーグの看板カードのマルセイユ-パリサンジェルマン戦よりも多くの観衆を集めたのも理解できる。
ここでマルセイユのお家騒動が始まる。かつてこのクラブには大物会長ベルナール・タピが君臨していたが、八百長疑惑で失脚し、1996年には株式をロベール・ルイ・ドレフェスが取得し、オーナーとしてクラブの実権を握ることになった。パリ生まれのルイ・ドレフェスは広告代理店、スポーツ用品メーカー、電話会社などで経営の手腕を発揮し、マルセイユのオーナーとなっている。しかし、ベルナール・タピが大物選手を補強して瞬く間に欧州の強豪となったのとは対照的に、ルイ・ドレフェスは時代も異なり、大物選手の獲得もままならず、前回紹介したとおり、タイトルを獲得するに至っていない。
■頻繁に交代する会長と監督
タピ時代には大物選手を次々と獲得してメンバーが代わったマルセイユであるが、順位は常に最上位であった。ルイ・ドレフェスの時代の順位は中位あるいは上位であり、選手も移籍市場の活性化によって代わったが、何よりも安定しなかったのはフロントならびにスタッフの部分である。チームの成績が悪く、ゲームの責任者である監督が辞任したり、更迭されたりすることはあるが、1996年にマルセイユをルイ・ドレフェスがオーナーとなってから実に8年間でのべ14人が監督をつとめている。さらに次々と代わったのは監督だけではない。マルセイユのクラブ組織は、オーナーであるルイ・ドレフェスとは別にCEOともいうべき会長職を置き、クラブの代表として実質的な責任者としている。この会長も次々に代わり、1999年まではジャン・ミッシェル・ルシエ、1999年から2000年まではイブ・マルシャン、2000年から2001年はルイ・ドレフェス自らが務め、2001年から2002年まではエチエンヌ・セカルディ、2002年6月から現在までクリストフ・ブーシェが務めるといった具合で、経営面でも不安定な状況が続いている。ベンチの戦術もクラブの方針も不安定なままでタイトルを獲得するすべもないが、その中で1999年と2004年にいずれもUEFAカップの決勝まで進出したことは大健闘であると言えよう。
■監督に続いて辞意表明したクリストフ・ブーシェ会長
さて、パリサンジェルマンに連敗し、まず11月23日にジョゼ・アニーゴ監督が辞任を表明した。そして26日にはブーシェ会長も辞意を表明した。ブーシェは2年前に会長に就任した際にクラブの株式の10%を取得、残りの90%の株を所有するルイ・ドレフェスとうまくやってきたかに見えたが、昨シーズンの主力であったディディエ・ドログバをチェルシーの札束攻勢から守りきることができず、ルイ・ドレフェスから非難を浴びていた。ブーシェの後任の会長にはルイ・ドレフェスと親しいボクシングの元フランス王者のルイ・アカリエスが候補として上がった。現在プロモーターを務めているアカリエスは2001年7月にジュリアン・ロルシー陣営としてWBA世界ライト級タイトルマッチで畑山隆則からチャンピオンベルトを奪い、2002年10月にWBAスーパーバンタム級タイトルマッチの際にはサリム・メジクンヌ陣営の一員として佐藤修の初防衛を阻止している。涙を飲んだ日本の皆様ならばよくご存知であろう。総合型スポーツクラブが一般的なフランスでは妥当な人事であるが、とりあえずブーシェは留任、しかしながら会長の椅子に誰が座るかはフランス・サッカー界で最大の話題である。
■新監督は逆転人事でフィリップ・トルシエ
会長人事の陰に隠れたが、フィリップ・トルシエが新監督に落ち着いた。ヴィッセル神戸から年俸500万ユーロの提示を受け、確実と思われていた監督人事であったが、トルシエは初めて欧州で1部リーグの監督の座に就いた。この逆転人事には様々な憶測があるが、神戸とマルセイユが姉妹都市であり、10年前の震災の際に多くの援助をしたこと、またマルセイユのオーナーのルイ・ドレフェス、ヴィッセル神戸のオーナーの三木谷浩史、この2人がいずれもハーバード・ビジネススクールの卒業生であったことも無視できない事実であろう。
そして、会長人事と監督人事で揺れるマルセイユに悲報が訪れたのである。(続く)