第417回 北欧の雄、スウェーデンと対戦(2) ワールドカップで実現しなかった公式戦初対決
■4度の親善試合で2勝2敗
前回の本連載ではフランスとスウェーデンの王室の関係を紹介したが、サッカーの世界のこれまでの交流を今回と次回は紹介しよう。
スウェーデンとの初対戦は1935年のパルク・デ・プランス。北欧諸国とはデンマークとは1908年のロンドン・オリンピック、ノルウェーとは1923年の親善試合で対戦しており、北欧の中では3番目に対戦した国となる。この時はフランスが2-0と勝利を飾るが、その次にフランスがスウェーデンと対戦するのは第二次世界大戦後の1952年のことである。この時もパルク・デ・プランスで試合が行われたがスウェーデンが1-0で勝利をあげている。続いて1953年にはフランスがスウェーデンを初訪問、スウェーデンにまたも敗れる。1955年にフランスはスウェーデンを迎えて20年ぶりの勝利をあげて、対戦成績を2勝2敗のタイとする。
■1958年ワールドカップ・スウェーデン大会
そしてフランスが2回目にスウェーデンの地を踏んだのが1958年のことである。フランスはスウェーデンで行われたワールドカップに出場したのである。この大会はこれまでも本連載で何度か紹介しているが、フランスはタレントを揃え、闘将と言われたアルベール・バトー監督が指揮をとり、地元スウェーデンとともに優勝候補に上げられた。
フランスはグループ1を首位で突破、開催国のスウェーデンもグループ3の首位となった。フランスは準々決勝で北アイルランドに4-0と大勝、スウェーデンは冷戦時代の東側の代表であるソ連を1-0と破り、揃って準決勝に進出、両者は決勝で争うのではないかと誰しもが予想した。
しかし、この優勝候補同士の決勝戦は実現せず、ブラジルの17歳の新星ペレが準決勝でフランスの夢を砕き、決勝では開催国スウェーデンを沈黙させる。フランスは3位にとどまったが、ワールドカップの産みの国として初めてのメダルはその後1998年に開催国として優勝するまでの最高の記録であり、ジュスト・フォンテーヌはこの大会で13得点をあげ、これはいまだに破られず、今後もそう簡単には破ることのできない1大会最多得点記録なのである。そしてこの大会は若き天才ペレの出現でいまだに語り継がれるが、この大会の最優秀選手は23アシストというこれまたとてつもない記録を残したフランスのレイモン・コパなのである。このようにフランスは輝かしい記録を残したが、心残りは、ワールドカップを獲得できなかったことに加え、王室にフランスの血の流れる開催国スウェーデンとの公式戦初対決が実現しなかったことであろう。
■公式戦初対決で敗れ、メキシコ行きを逃す
スウェーデンとの公式戦での初対決は1970年ワールドカップ・メキシコ大会予選であり、1969年10月15日のことである。1966年イングランド大会で惨敗したフランスはノルウェー、スウェーデンという北欧勢とメキシコ行きのチケットを争うことになる。フランスの指揮官は切り札のジャック・ブーローニュ。フランスは初戦のストラスブールでのノルウェー戦に敗れ、第2戦のアウエーでのノルウェー戦で勝利して盛り返す。第3戦はアウエーでのスウェーデン戦。このスウェーデンとの公式戦初対決が、メキシコ行きをかけた大一番となった。ストックホルムのソルナで行われた試合でフランスは前半に先制点を許し、後半も追加点を献上する。公式戦初対決を制したスウェーデンがワールドカップ出場を決め、フランスは予選敗退となった。2週間後にパリで行われた試合では、フランスが3-0と完勝しており、もしも両者の公式戦初対決が先にパリで行われていれば、フランスサッカーの歴史も変わったのかもしれない。
■ホームで不覚のドローが響き、イタリア行きならず
そしてその10年後、1980年欧州選手権イタリア大会の予選でフランスとスウェーデンは同じグループ5に入る。この大会から本大会が8チームで争われるようになり、両国にチェコスロバキアとルクセンブルグを加えた4チームで争われた。フランスは予選の初戦でスウェーデンをパルク・デ・プランスに迎える。ところがこの試合でフランスは2-2とドローに終わってしまう。結局この引き分けがイタリア行きを妨げることになった。結果的にイタリア行きを決めたチェコスロバキアとフランスはお互いにホームで勝利して1勝1敗であった。フランスはアウエーでもスウェーデンに勝利したが、チェコスロバキアはフランス戦以外の試合を全勝し、フランスのイタリア行きを止めたのである。
フランスはスウェーデンと同グループになって再び予選落ちとなったが、次の対戦はその10年後となる。真夏の親善試合でフランスのサッカーは転換期を迎えたのである。(続く)