第3163回 追悼 ジュスト・フォンテーヌ (4) 早すぎた引退もバラ色の人生を送る
平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、台風15号、19号、令和2年7月豪雨などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■レアル・マドリッドに敗れるが、チャンピオンズカップで得点王に輝く
1959年6月3日、西ドイツのシュツットガルトのネッカーシュダディオンで行われたチャンピオンズカップ決勝、スタッド・ド・ランスはレアル・マドリッド(スペイン)に4年前の雪辱を果たすべく立ち向かった。スタッド・ド・ランスの背番号9のジュスト・フォンテーヌはCFを務めるが、レアル・マドリッドのCFはアルフレッド・ディ・ステファノである。4年前のパリでの試合にもディ・ステファノは出場していたが、当時はアルゼンチン国籍であり、その後スペイン国籍を取得した。そのため外国人枠が空き、そこにスタッド・ド・ランスのメンバーとして出場していたフランス人のレイモン・コパが移籍したのである。このコパの移籍に連動してフォンテーヌがニースからスタッド・ド・ランスに移籍してきた。そしてコパは移籍後、レアル・マドリッドで3度優勝を果たし、シュツットガルトの試合でも背番号7を付けて出場する。
試合はレアル・マドリッドが開始1分にエンリケ・マテオスのゴールで先制する。そして後半の立ち上がりにもディ・ステファノが追加点、スタッド・ド・ランスは0-2と敗れ雪辱を果たすことはできなかったのである。しかし、フォンテーヌはこの大会で10得点をあげ、前年のワールドカップに続いて得点王になる。
■2度目のリーグ得点王に輝くが、28歳で若すぎる引退
このシーズン終了後、コパがレアル・マドリッドからスタッド・ド・ランスに復帰し、フォンテーヌとのコンビでの活躍が期待された。フォンテーヌは1959-60シーズンはシーズン終盤に負傷して離脱しながら28得点をあげて2回目のリーグ得点王となり、チームもリーグ優勝を果たす。欧州選手権は欠場し、1960-61シーズンは負傷から復帰してチャンピオンズカップに臨むはずであった。しかしチャンピオンズカップは1試合出場しただけで、1961年1月1日のリーグ戦で負傷、クラブでも代表でも国際試合に出場することなく、1962年に28歳で引退した。
負傷に泣かされ、代表、クラブで出場した国際大会は1958年のワールドカップと1958-59シーズンのチャンピオンズカップだけである。いずれも上位に進出したが、優勝にはあと一歩及ばなかったが、両大会で圧倒的な数字で得点王となったことはフランスサッカーの金字塔と言えるであろう。
■低迷期のフランス代表監督として2試合を指揮
負傷に悩まされたフォンテーヌはプロサッカー選手会を弁護士とともに立ち上げ、引退後はフランスサッカー連盟の指導者のライセンス講習を受け、首席でライセンスを得る。フランス代表は1962年のワールドカップチリ大会は予選落ち、1964年の欧州選手権も敗退、1966年のワールドカップイングランド大会はグループリーグで敗退と低迷期にあった。1967年2月にフォンテーヌは33歳で代表監督に就任したが、ルーマニア、ソ連に連敗し、代表監督の座を辞した。 妻のアルレットさんの故郷のトゥールーズでスポーツ用品店を開業する傍ら、地元のアマチュアチームの監督を務めた。
■パリサンジェルマンを1部昇格に導く
そのフォンテーヌはできたばかりの2部のチームの監督に1973年に就任した。それがパリサンジェルマンである。フォンテーヌは就任初年に2部で2位に入り、入替戦でバランシエンヌと対戦、アウエーの第1戦は1-2と落としたが、パルク・デ・プランスでの第2戦は4-2と勝利して1部初昇格を決めた。1部でも2シーズン指揮を執り、上位進出はならなかったが、現在まで続く1部在位の最初の指揮官はフォンテーヌである。
モロッコ代表監督にも就任し、アフリカ選手権に出場したが、交通事故で本大会の指揮は取れなかった。
フォンテーヌの歩んできたチームが現在躍動している。引退後、半世紀以上住み続けたトゥールーズで息を引き取ったが、トゥールーズの別名はバラの街、まさにラ・ビ・アン・ローズ、バラ色の人生を全うしたのである。謹んで冥福を祈りたい。(この項、終わり)