第458回 監督交代相次ぐフランス(1) 3年契約で3年連続リーグ優勝、ポール・ルグアン
■リーグ優勝監督もカップ優勝監督も交代
前回の本連載では4回目のフランスカップ優勝を花道に引退をしたオセールのギ・ルー監督を紹介したが、リーグ優勝のリヨンを率いたポール・ルグアン監督もチャンピオンチームから離れることになった。リーグ優勝チームもカップ優勝チームも監督が交代するというのは異例なことであろう。
4連覇はフランスリーグでは本連載でも紹介したとおりこれまでにサンテエチエンヌ(1967-1970)とマルセイユ(1989-1992)の2チームしか達成していないが、諸外国の例を見ても非常に珍しいケースである。イングランド、ドイツでは達成したチームはない。スペインではレアルマドリッドが2回(1961-1965の5連覇と1986-1990の5連覇)、バルセロナが1回(1991-1994)、イタリアではユベントス(1931-1935の5連覇)とトリノ(1943-1949の5連覇)であり、日本の皆様ならば東洋工業の4連覇(1965-68)という金字塔を誇りに思っていらっしゃるであろう。
■現役時代はパリサンジェルマンで数々の栄冠
そのリヨンの栄光はまだ41歳の若さの指揮官であるルグアンによって導かれた。ルグアンはブルターニュ地方の出身でブレスト、ナントという西部のクラブチームを経て1991年からパリサンジェルマンの一員となり、1998年に現役を引退するまで数多くのタイトルを手にしている。リーグ優勝1回、フランスカップ優勝3回、リーグカップ優勝2回、そして欧州カップではカップウィナーズカップを獲得している。ルグアン引退後のパリサンジェルマンのタイトルは2004年のフランスカップだけであることからルグアン引退とともにパリサンジェルマンは輝きを失ったとも言えよう。
フランス代表としても17試合に出場、1994年にはキリンカップの日本戦にも出場していることから日本の皆様もよくご存知であろう。しかしながら、1994年ワールドカップ予選は活躍をしたが、最後の最後で米国行きを逃し、1996年欧州選手権予選にも出場したが、イングランドでの本大会のメンバーから外れており、欧州や世界の檜舞台に立つことはできなかった。
■初優勝したリヨンの監督に就任、偉業達成
ルグアンは引退後すぐにブルターニュの名門レンヌの監督となり、3シーズンを過ごす。そして2002年にはリヨンを初優勝に導いたジャック・サンティーニ監督がフランス代表の監督に就任したのを受け、リヨンの監督へ就任した。就任した直後に、ルグアンは危機を迎えた。就任初年の年明けの最初の試合はフランスカップである。ここでリヨンはアマチュアのチームに敗れてしまう。ちょうど1月前にも欧州カップで惨敗しており、青年監督に対する非難の声が高まった。しかし、そこでルグアンを擁護したのがリヨンの会長のジャン・ミッシェル・オラスであった。この実力会長がルグアンを更迭していれば、今日に至るリヨンの栄光はなかったのかもしれない。
リヨンはフランスを代表するビッグクラブであるが、スター集団ではない。今回のハンガリー戦こそ、6人を代表に送り込んでいるが、従来の4連覇チームであるサンテエチエンヌやマルセイユが準フランス代表であったのとは大きく異なる。リヨンの強さは主力選手を毎年のように放出し、チームに新陳代謝を絶えず図ってきたことにあり、その入れ替わりの激しいメンバーをうまくリードしたのはルグアンの手腕であり、高く評価されるべきであろう。
■国外での経験を積むためリヨンの監督から勇退
3年契約の就任中はリーグ3連覇を達成し、国内のカップ戦の戦績こそ振るわなかったが、欧州カップでは上位に進出しており、欧州の頂点に一番近いフランスのクラブにまで育て上げた。契約の切れる今シーズン終了後の去就がシーズン中から注目を集めていた。リヨンは今季は独走し、早々と優勝を決めたが、優勝を決めた翌日にルグアンはリヨンを去ることを表明したのである。
ルグアンは「今後は外国で経験を積みたい」ということで選手として大活躍したパリサンジェルマンからの誘いを断って国外へ行くことを表明している。5連覇、そして欧州チャンピオンを目指すリヨンの後任の監督にはルグアンがワールドカップ米国予選を戦った当時の代表監督のジェラール・ウリエが就任する。
ルグアンが選手として果たすことができなかった国際舞台での活躍を監督として実現する日を楽しみにしたい。(この項、続く)