第29回 2002年アフリカ選手権(4) よみがえる黒豹
■1972年アフリカ選手権準優勝を最後に低空飛行をする鷲
前回はマリの国民的英雄サリフ・ケイタを紹介した。マリがアフリカ選手権に初めてエントリーしたのは第6回大会にあたる1968年大会。マリにとって3回目の出場にあたるカメルーンで開催された1972年大会はケイタを中心にメンバーもそろい、国民の期待を集めた。ザイール(現在のコンゴ民主共和国)との準決勝は点の取り合いとなり、4-3で勝利し、初めての決勝進出となる。決勝の相手は準決勝で地元カメルーンを下したコンゴ(現在のコンゴ共和国)である。決勝では2-3と敗れ国民を失望させることとなったが、その後マリはアフリカ選手権で良い成績を残すことができず、1994年のチュニジア大会での準決勝進出まで国民は「エーグル(マリ代表の愛称:フランス語で鷲という意味)」の活躍を待たなくてはならなかった。
■念願の育成機関を設立したケイタ
ケイタは1980年の引退後、新たな道を歩み始めた。現役時代にクラブと金銭面で折り合いがつかずに移籍した経験もあるケイタは「サッカーの世界では大金が動くが、将来的なビジョンや計画がない」と感じ、ケイタは大学に入学し、経営管理を学ぶこととなった。5年間の学生生活をおくった国民的英雄は1986年にすっかり弱小チームとなったマリ代表チームのテクニカルディレクターに就任するが、すぐに辞任し、自分を育ててくれたレアル・バマコをプライベートで援助し続けた。サッカー関係の職にはつかずともケイタはサッカーの常に近くにいながら、ビジネスマンとして道を開く。ホテルを開業したほか、不動産事業を営み、マリ貯蓄銀行で広報やマーケティングなどを担当する。
そして1993年についに念願のサッカー選手の育成機関を設立する。「サリフ・ケイタ・センター」という自らの名前を冠した育成機関のチームはリーグにも所属し、1997年には1部リーグに昇格する。ケイタは自らの10年以上の欧州での経験を生かし、欧州のクラブとの提携を結び、育成機関の効果が現れたのである。
■1999年ワールドユースで3位に輝く若鷲
日本の皆さんならば記憶に新しい1999年にナイジェリアで開催されたワールドユースでマリは旋風を起こす。グループFの初戦でウルグアイに2-1、第2戦では若手世代が充実し、決勝トーナメントで日本を苦しめたポルトガルに2-1と連勝し、早々と決勝トーナメントを決める。グループリーグ最終戦の韓国戦こそすでにグループリーグで連敗してしまった韓国に2-4と敗れるが、堂々のグループFを首位通過。決勝トーナメント1回戦では日本をグループリーグで破ったカメルーンと対戦し5-4という大接戦を制する。準々決勝では地元ナイジェリアに3-1と完勝し、アフリカのワールドカップ常連国を連破する。そして準決勝、相手は決勝で日本を4-0と一蹴して優勝することになる強豪スペイン。3-1と敗れたものの、3位決定戦では再度対戦することとなったウルグアイを1-0で退け、3位になった。
■若き黒豹、セイドゥ・ケイタ
この大会、マリの躍進を支えたのは1980年生まれのセイドゥ・ケイタ。伝説の黒豹・サリフ・ケイタの息子である。父親がすでにアメリカに渡って選手生活の晩年を迎えたころに生まれたセイドゥ・ケイタはこのワールドユースで最優秀選手に選ばれた。セイドゥ・ケイタは父と同じ道をたどり、フランスリーグで活躍する。まずマルセイユでプレーした後、2000年には2部のロリアンに移籍し2部で2位となり、ロリアンの1部復帰に貢献したのである。
そしてセイドゥ・ケイタは1月19日にバマコで行われたアフリカ選手権の開幕戦のリベリア戦に出場する。6万人の大観衆の前、父親同様に国民の期待を集めてピッチを走る。しかしながら、前半終了間際に先制点を許す。試合時間も少なくなり、このまま最少得点差で負けるのか、と思われた87分、セイドゥ・ケイタの同点ゴールが決まる。試合は1-1のドローであったが、リベリアの先制点を決めたのはジョルジュ・ウェア。フランスリーグのモナコ、パリサンジェルマンで活躍し、世界最優秀選手、欧州最優秀選手、アフリカ最優秀選手という3つのタイトルを獲得した1990年代のアフリカサッカーの巨星である。そのウェアの先制点に追いつくゴールをセイドゥ・ケイタが決めた瞬間、「黒豹」がよみがえったと感慨にふけるファンは少なくはなかったはずである。(続く)