第32回 フランス、ルーマニアを破る(1) 1990年代の3つの対戦
■フランスとつながりのあるルーマニア
ワールドカップイヤーを迎えたフランス代表の今年最初の試合は2月13日のスタッド・ド・フランスでのルーマニア戦である。ルーマニアという国の名の由来は「ローマ人の国」。ラテン系の国であり、世界で最もフランス語が通用する国のうちの一つであろう。日本の皆さんも1989年のチャウシェスク独裁政権崩壊時に唯一取材を許されたフランスのテレビ局の取材に市民が若干のアクセントのあるフランス語でインタビューに応えていたシーンをよく覚えているであろう。
ルーマニアはバルカンに位置しながらフランスや英国と関わりが強く、サッカーについても英国やフランスで学んだ学生が中心になって普及させてきた。ルーマニアのサッカーの歴史は古く、1930年の記念すべき最初のワールドカップに出場しており、開催国のウルグアイから最も遠方に位置する出場国であった。そして欧州で行われた続く1934年のイタリア大会、1938年のフランス大会にも連続して出場している。
しかし、第二次世界大戦後社会主義国となってからはワールドカップ本大会への道のりは遠く、1970年メキシコ大会に出場するまで30年以上世界の桧舞台から遠ざかっていた。そして独裁政権崩壊直後の1990年にイタリア大会に復活してから3大会連続で出場している。今回のワールドカップには出場することはできなかったが、7回の出場のうち社会主義政権下での出場がわずか1回というのは非常に興味深い数字である。
フランスのルーマニアとの対戦は過去9回。フランスが5勝1分3敗と勝ち越しているが、1990年代の3回の対戦は非常に印象的な試合である。
■ジャッケ更迭説が沸き起こったサンテエチエンヌ
まず、1994年10月8日の欧州選手権予選の第2戦となるサンテエチエンヌでの対戦。就任1年目のエメ・ジャッケ監督の国内最初の公式戦である。予選の初戦となるブラスティビアでのスロバキアとのアウエーの試合がスコアレスドローに終わり、過去ジャケが選手として活躍したサンテエチエンヌでの勝利をファンは期待した。しかしながら、守備を固めたルーマニアにゴールを奪えない。試合終盤には8月のチェコ戦で代表デビューし2得点をあげ救世主となったジネディーヌ・ジダンを交代出場させるが、無得点のまま試合終了。ふがいない戦いぶりにジャッケ更迭論が沸き起こったのである。
■起死回生の本大会出場を決めたブカレスト
2度目の対戦は同じく欧州選手権予選のアウエーのブカレストでの試合。予選9試合目となりフランスはここまで3勝5分で、負けこそないが下位チームに対して引き分けが続く。かたやルーマニアは5勝3分と言う成績ですでに予選首位を確定し、しかも1990年10月以来ホームでは負けなしである。悲観論が漂う中でのキックオフ。この大一番のゴールマウスには前年の神戸での豪州戦でデビューして以来、代表の試合からほぼ1年半遠ざかっているファビアン・バルテス。クリストフ・デュガリーのワントップという守備的な布陣で戦ったが、それまでの不調がうそのように攻撃を仕掛け、クリスチャン・カランブー、ユーリ・ジョルカエフ、ジネディーヌ・ジダンが得点をあげ、守っても1失点に押さえ、フランスはこの試合で欧州選手権の出場権をつかんだのである。
■栄光への第一歩となったニューキャッスル
そして、3度目の対戦は奇しくも1996年欧州選手権の本大会。ニューキャッスルのセントジェームズパークでの初戦である。ブカレストでのルーマニア戦以降、フランスは連戦連勝。1996年に入っても親善試合で6連勝し、ドーバー海峡を渡ったのである。1986年のワールドカップ・メキシコ大会以降、フランスは国際大会の本大会出場は92年
の欧州選手権だけで、しかもスウェーデンでは2分1敗でグループリーグ敗退である。この試合でジャッケは4人のDFラインの前にリベロのディディエ・デシャン、ゲームメーカーにジダン、2人のFWのうち1人はトップ(デュガリー)、もう1人は下がり目(ジョルカエフ)というシステムを完成させる。結局29分にデュガリーが期待通りにゴールを決めて1-0で勝利し、10年振りとなる国際大会での勝利を記録し、チームは結局準決勝まで進出するのである。(続く)