第554回 2005-06フランスリーグ・フィナーレ(2) バランシエンヌ、長いトンネルを越えて1部復帰

■八百長事件に関するマルセイユへの処分

 1993年5月20日のバランシエンヌ-マルセイユ戦に関わる八百長事件をバランシエンヌの選手が6月に自白したことにより、その夏のフランスのサッカー界には激震が走った。マルセイユはUEFAからチャンピオンズリーグ優勝のタイトルと、1993-94シーズンのチャンピオンズリーグへの出場権を剥奪される。そしてフランスサッカー協会はフランスリーグ優勝のタイトルを剥奪した。さらに、フランスサッカー協会は翌年にはさらに重いペナルティを課し、事件の起こった翌々シーズンとなる1994-95シーズンは2部に降格し、1シーズンでの復帰は不可という処分を課す。

■戦力ダウンしたバランシエンヌ

 ビッグクラブであり、国内外の頂点に立ったマルセイユの凋落は多くの方がご存知であろうが、一方のバランシエンヌのその後の歴史については本連載では紹介したことがなかった。当時のバランシエンヌの会長は市長でもあったジャン・ルイ・ボルローでありベルナール・ラマナンスーとも非常に近い大物会長であった。サッカーで町おこしをはかり、北のベルナール・タピという異名も持つ。その点でもマルセイユとの試合は注目を集めたが、残念な結果になった。また、選手もディエゴ・マラドーナとコンビを組んだホルヘ・ブルチャガを擁し、ユーゴスラビア人のボロ・プリモラッツが監督であった。この不祥事で多くの選手が出場停止などの処分を受け、クラブを去る選手もいた。そして名指揮官の誉れ高かったプリモラッツもこの不祥事の証人となりフランスを追われ、結局モナコを追い出されたアルセーヌ・ベンゲルとともに名古屋グランパスエイトを新天地に選ぶ。

■マルセイユの2部降格を待つことなく下位リーグに降格

 そのように戦力が大幅にダウンしたバランシエンヌは1993-94のシーズン、20チーム中18位に終わり、処分ではなく実力で2部に降格してしまう。そして1年遅れの1994-95シーズン、因縁のマルセイユとの対戦が実現するかと思われたが実現しなかった。なぜならば、バランシエンヌは2部に降格したその1993-94年に12勝13分17敗という成績で2部リーグ22チーム中下から3番目の20位になり、2部からも陥落してしまい、マルセイユの2部降格を待つことなく、2部から下位のナショナルリーグへと降格してしまったのである。
 バランシエンヌの長いトンネルは続く。ナショナルリーグでも初年度の1994-95シーズンは15位と低迷、2部で1位となったマルセイユとは好対照の成績となった。1995-96シーズンはナショナルシーズンで3位となったが、大きな事件が起こった。それはバランシエンヌが2400万フランの赤字を抱えて倒産したのである。1996年には60年以上続いたプロチームの所有を放棄し、アマチュアチームのみとなり、1996-97シーズンは4部リーグに相当するCFA(フランスアマチュアリーグ)に降格して戦う。2シーズン目に優勝して1998年にはナショナルリーグに復帰する。このシーズン、マルセイユはUEFAカップの決勝に進出している。

■トヨタの工場進出とともに息を吹き返す

 2000-01シーズン終了後、再びCFAに降格してしまう。ファンも浮かない毎日を過ごしていた。そこにちょうど救世主が訪れた。トヨタが建築していた工場が稼働したのである。かつての監督が行ってしまった町から工場がやってきた。町は生き返った。そして低迷の続くバランシエンヌの胸にはTOYOTAの文字が燦然と輝いたのである。日産の社長がフランス人であることを知らないフランス人はいるが、フランスにトヨタの工場があることを知らないフランス人はいないと言われている。世界のトヨタのスポンサードを受けたCFAから1シーズンでナショナルリーグに復帰、そして3シーズン目の2004-05シーズンはついにナショナルリーグで優勝、11年ぶりに2部リーグに復帰し、プロチームを復活させたのである。
 そして4月28日、バランシエンヌは1部復帰をかけてスダンのルイ・デュゴーゲズ競技場に乗り込む。1万7000人の観衆のほとんどは地元スダンのファンであるが、試合は終始バランシエンヌが主導権を握り、前半終盤に先制点、後半に入っても2得点を加え、結局バランシエンヌが3-0と言うスコアで勝利し、1部昇格一番乗りを決めたのである。
 13年ぶりの1部復帰となったが、これだけ暗い時代が続いたチームも珍しいであろう。今から来季のマルセイユとの再戦が楽しみである。(続く)

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