第636回 さらば、ユーリ・ジョルカエフ(2) 9つのクラブで3つのビッグタイトルを獲得

■親子二代でフランスカップ獲得

 ユーリ・ジョルカエフの父親はフランス生まれであるが、ロシア共和国のカルムイク系であり、母親はアルメニア系である。そのような東方からの移民の子孫であるジョルカエフは20年間のプロ生活で9つのクラブを渡り歩いた。
 ジョルカエフは、父ジャン・ジョルカエフがリヨンに所属していた時に生まれ、年少時からリヨンに所属していた。16歳の時、当時2部リーグに所属していたグルノーブルでプロにデビューする。現在は日本企業の支援を受け、欧州有数のビッグクラブとなったグルノーブルも当時は2部と3部を往復しているチームであった。5シーズンのグルノーブルでの生活の後、1989年には2部のストラスブールに移籍する。
 そのジョルカエフの活躍を認めたのが当時のモナコのアルセーヌ・ベンゲル監督であり、1990-91シーズンの途中にモナコに移籍する。移籍したシーズンに初めてのタイトルを獲得する。モナコはフランスカップ決勝に進出する。相手は当時のフランスのサッカー界を謳歌し、父ジャン・ジョルカエフも所属したマルセイユである。1991年5月にパルク・デ・プランスで行われた試合は、両者譲らず、無得点が続き、延長戦かと思われた。しかし90分、後に日本でも活躍することになるジェラール・パッシが決勝点をあげ、モナコが優勝する。23歳のジョルカエフはこれが初タイトルとなり、フランスカップを獲得した初めての親子となった。ジョルカエフは「蛇」とあだ名されるように突然攻撃に参加し、得点を決めていった。9番と10番をあわせた動きをすることから「9 1/2」と呼ばれた。

■パリサンジェルマンでカップウィナーズカップを獲得

 ジョルカエフを獲得したベンゲル監督は成績不振で1994年にモナコを去る。そしてその翌年、ジョルカエフもモナコを去り、父ジャン・ジョルカエフが選手生活晩年に所属したパリサンジェルマンへ移籍する。パリサンジェルマンでの最初のシーズン、ジョルカエフはカップウィナーズカップで優勝する。フランスのチームとして最初かつ唯一の欧州カップ獲得のメンバーとなり、父親が果たせなかった欧州制覇を遂げたのである。そのタイトル獲得が評価され、折からのボスマン判決もあり、ジョルカエフは1シーズンだけでパリサンジェルマンを離れるとともにフランスからも離れ、代表の試合以外でフランスに戻ってくることはなかったのである。

■インテル・ミラノでUEFAカップを獲得

 ジョルカエフがまず国外のクラブとして選んだのはイタリアのインテル・ミラノである。この古豪でジョルカエフは移籍初年にUEFAカップ決勝に進出する。決勝はドイツのシャルケ04と対戦し、1勝1敗でPK戦となり、優勝を譲った。そしてその翌年、すなわちワールドカップを控えた1998年の春もジョルカエフはUEFAカップ決勝に出場する。この年からUEFAカップの決勝は1試合となり、ラツィオ・ローマを3-0と下したインテル・ミラノが最多となる3回目の優勝を飾ったのである。しかし、ジョルカエフにとってこれが最後のクラブとしてのタイトルであった。
 1999年にはドイツのカイザースラウテンに移籍、2002年にはイングランドのボルトンに移籍、そして2004年夏には同じくイングランドのブラックバーンに移籍する。これらのクラブではこれと言った成果を残すこともないまま、月日が過ぎていった。

■新大陸で引退、実現しなかったリーグチャンピオンの夢

 そしてジョルカエフは新大陸にラストチャンスを求めた。2005年1月に米国のメジャーリーグサッカーに所属するレッドブル・ニューヨークに移籍する。かつてメトロスターズと呼ばれた北米の人気チームである。リーグ戦は春に始まり秋に終わるが東地区で4位に入り、プレーオフ準決勝に進出した。プレーオフ準決勝の相手はレギュラーシーズンで地区1位のDCユナイテッド、訪日経験もあることから日本でのファンも多いであろう。10月21日の第1戦はレッドブル・ニューヨークの本拠地であるジャイアンツスタジアムで行われ、ジョルカエフはチーム最多の4本のシュートを放つが、チームは0-1で惜敗するそして10月29日の第2戦、敵地ワシントンのRFKスタジアムでの試合、ジョルカエフは負傷のためベンチ入りせず、勝利を願う。しかしスコアレスドローでレッドブル・ニューヨークの敗退が決定する。ロシアの血を引くジョルカエフは選手生活を米国で終え、リーグチャンピオンと言う夢は長い現役時代の間、達成することができなかったが、親子での活躍はフランスのサッカーファンに長く語り継がれるであろう。(この項、終わり)

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