第50回 東欧の巨人ロシアと対戦(2) 東西冷戦前夜の最初の親善試合

■激変の20世紀のフランスとロシアの関係

 過去のフランスとロシア(ソ連)との対戦は16回でフランスが4勝6分6敗と負け越している。ロシアはロシア革命、二度の世界大戦、東西冷戦、冷戦の終結、ソ連の解体という大きな流れの中で、帝政ロシア、ソビエト連邦、独立国家共同体、そしてロシア共和国とその姿を変えてきた。また両国の関係もロシアという国家の変遷だけではなく、国際情勢によって大きく変化をしている。
 過去の両国の対戦史を振り返る際にその時々の両国の政治・経済の動向、両国の関係という時代背景を考慮すると実に興味深い。5回にわたりフランスとロシア(ソ連)の過去の対戦史について紹介することにしよう。

■北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構

 フランス代表は1904年に最初の国際試合を行っており、前回ご紹介したとおり露仏同盟の存在もあり、ロシアとの関係は密接であったが、対戦をしていない。その後ロシア革命が勃発し、ソビエト連邦が成立し、二度の大戦を経てもなお、ソ連とイレブンが対戦することはなかった。
 フランスが最初にソ連と対戦したのは1955年のことである。1955年といえばワルシャワ条約機構が設立された年であり、東西関係が緊張する前夜で、フランスの対ソ政策も他の西欧諸国と一線を画していたころである。第二次大戦の終結は西欧諸国にとっての仮想敵国がドイツからソ連に変わったことを意味する。1949年に共産主義の脅威に対抗するため米国、カナダの北米2か国及びフランス、イギリス、イタリアなどの欧州10か国を原加盟国として安全保障同盟機構である北大西洋条約機構(NATO)が発足する。1952年には欧州防衛共同体(WDC)が発足し、欧州各国の軍隊を統一欧州軍として編入し、米国がソ連に対抗するためにNATO軍として機能させようとする。
 この米国主導の西欧の安全保障体制に最初に抵抗したのがフランスであり、ドイツの復活、軍事面での国家主導の否定を理由にフランスはこのWDCに反対する。1953年にはスターリンが死亡し、「平和路線」も芽生える。1954年にはフランス議会はWDC批准を否決、ここでWDC構想は崩れてしまう。そして1955年にはかつての仮想敵国である西ドイツの再軍備が承認され、NATOに西ドイツが加盟する。一方、再軍備した西ドイツを加えたNATOに対抗してソ連は同年にワルシャワ条約機構を発足させる。

■ワルシャワ条約機構の発足直後に初対戦

 このように他の西欧諸国と対ソ政策が若干異なっていた1955年にフランスがモスクワを訪問して親善試合を行ったことは時代背景を考えてみれば理解しやすい。10月23日のモスクワのディナモ・スタジアムでの記念すべき第1戦でフランスは守備的なフォーメーションを組むが、29分にレイモン・コパが先制点をあげる。ソ連は前半42分に同点に追いつき、後半に入ったばかりの46分に逆転する。しかし、64分にロジェ・ピアントニのゴールでフランスが同点に追いつき、2-2のドローで試合終了となる。

■名手ヤシンから2ゴールを奪い初勝利

 そしてそのほぼ1年後の1956年10月21日に今度はフランスがロシアをコロンブのオリンピック・スタジアムに迎える。ソ連のGKは名手レフ・ヤシンだったが、フランスは後半開始早々にこのヤシンから2点を奪い、その後のソ連の反撃を1点におさえ、2-1で勝利し、スタッド・ド・フランスが完成するまで長らくフランス代表のホームゲームの観客動員記録だったに62,145人の観衆を喜ばせたのである。
 注目すべきはこの時代のフランス代表にはポーランドならびにアルジェリアからの移民の選手が半数近くを占めていたことである。ポーランドはソ連の傘下であり、ワルシャワ条約機構の事務局が存在する。アルジェリアは本連載の第6回で紹介したとおり、フランスからの独立運動が起こり、1958年にはアルジェリア民族解放戦線チームに多くのフランス代表選手が招集され、ソ連などの東欧圏との交流を行った。このように複雑な国際関係と移民国家ならではの多種多様な出自の選手が存在する中、他の西欧諸国と対ソ外交で一線を画していたフランスはソ連とホームアンドアウエーで親善試合を行った。しかし、その直後、東西間の対立が再燃し、続いて緊張緩和(デタント)という揺れ戻しもあり、フランスとソ連の関係は大きく変化していくのである。(続く)

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