第841回 今ここで考えるフランス・サッカーの危機(3) 民族問題も入り込んできたサッカー場
■試合が中断された2001年10月6日のフランス-アルジェリア戦
前回の本連載では、フランスのサッカー場に人種差別問題が入り込んできたことを紹介したが、サッカー場には人種差別だけではなく、民族問題も入り込んできた。
フランスがアフリカなどに多くの植民地を抱え、その多くが独立したこと、そしてフランス国内においても独立の気運の高まる地域があること、これらの政治的な動きはフランスの大きな社会問題である。ところが、近年、このような政治的な動きをサッカー場の中で表現するような動きが出てきた。
その代表的な例は本連載の第5回から第12回で紹介した2001年10月6日のフランス-アルジェリア戦であろう。スタッド・ド・フランスで行われたこの試合は両国の間で行われた最初の試合である。詳細については第5回以降の連載をご一読いただきたいが、第二次世界大戦後の1954年から始まったアルジェリアの独立戦争をめぐり、両国の間にはまだ見えない壁がある。そしてその暗い歴史から40年、フランス代表は聖地スタッド・ド・フランスにアルジェリアを迎える。多くのアルジェリア出身者がスタッド・ド・フランスに押しかけ、異様な雰囲気の中で試合は行われる。当時ワールドカップと欧州選手権の二冠を保持していたフランスは試合を優位に推し進め、4-1とフランスがリードしていた後半76分、アルジェリアのファンと思しき若者がピッチに入り込み、次々とピッチに侵入するファンの数は数え切れず、ついに試合は途中で打ち切られてしまったのである。これが新たなる聖地であるスタッド・ド・フランスにおける最初の事件であり、この事件を皮切りにフランスのサッカー場では残念なことに政治的なデモンストレーションの場となってしまったのである。
■「ラ・マルセイエーズ」にブーイング、ジャック・シラク大統領退席
次の事件は同じシーズンのフランスカップの決勝で起こった。年が変わり2002年、サッカーの世界ではワールドカップであるが、フランス人にとってこの年の最大の関心事は大統領選挙であった。5月5日に行われた大統領選挙はジャック・シラク大統領が国民戦線のジャン・マリ・ルペン党首を破って再選を果たし、5月11日にフランスカップの決勝を迎えた。しかし、シラク大統領は共和国大統領として認められない光景に遭遇する。それは国歌である「ラ・マルセイエーズ」がブーイングの嵐に襲撃されたのである。この年の決勝進出チームはロリアンとバスティアであった。バスティアは独立運動が起こっているコルス島のチームであり、フランスの国歌は認められない、という意図の表れであろう。この一件でシラク大統領、そして側近であった当時のニコラ・サルコジ内相なども退席してしまうと言うハプニングがあった。
これらの事件は2001-02シーズンのことであり、このあたりからフランスのサッカーは変調をきたした。2002年のワールドカップにおいて惨敗したが、その惨敗の理由として本連載第78回から第84回で様々な理由を紹介したが、その時に商業主義が選手を蝕んでいることは紹介したが、このような政治的な動きがサッカー場を覆い始めてきたことも紹介すべきであったであろう。また、このころからフランスのサッカー選手が政治的なメッセージを送るようになったことも特筆すべき事項であろう。
■死者が出たパリサンジェルマン-ハポエル・テルアビブ戦
そしてついに死者が出たのが2006年11月23日のUEFAカップのパリサンジェルマン-ハポエル・テルアビブ(イスラエル)戦である。本連載の第646回から第648回で紹介しているが、パリサンジェルマンのサポーター、通常はパリサンジェルマンを応援しているユダヤ系のフランス人、カリブ海の海外県出身の黒人の警備の警官という三者の間でいざこざとなり、人種差別と民族問題の双方が絡んだ問題となった。警官が発砲した弾に当たった25歳のパリサンジェルマンのサポーターが命を落とした。
■ファンにとって安全な場ではなくなったサッカー場
このように前回紹介した人種差別だけではなく、民族問題もサッカー場の中に入り込んできた。1990年代の終わりのワールドカップ開催のころからフランスのサッカーの観客動員は増えてきたが、近年は代表の試合においては減少、そしてクラブの試合においても横ばいと言う状態である。特にスタッド・ド・フランスで行われるフランス代表の試合については激減である。これは一般市民がサッカー場、特にパリ近郊にあるスタッド・ド・フランスを、安全な場所ではないととらえていることを意味しているのではないだろうか。(続く)