第843回 今ここで考えるフランス・サッカーの危機(5) ビッグビジネスが去ったフランス・サッカー
■名門マルセイユを復活させたベルナール・タピ
前々回の本連載ではファンがサッカー場を危険な場所と捉え、前回の本連載では選手が人種差別を原因にフランスを去っていくことを紹介した。ファン、選手がフランスのサッカーを離れていく中、今回はサッカーをビジネスとして捉える存在がフランスのサッカー界から離れてきたことを紹介したい。
サッカーとビジネスと言う点でフランスのサッカーが大きく変わったのは1980年代の後半である。日本経済がバブル期を迎えていたころ、フランスのサッカー界にも新たな波が訪れた。それは大物実業家のサッカー界への参入である。1986年にはベルナール・タピがマルセイユの会長に就任し、2部に甘んじていた名門チームは息を吹き返す。タピは1990年にはアディダス社の株式の過半数を取得し、大物選手を国内外から集め、欧州の頂点にあと一歩のところまでこぎつける。
またタピは政界にも進出し、1990年には下院に相当する国民議会の議員になり、1992年には都市担当大臣に就任する。この政界進出についてはタピはサッカーをフル活用する。タピはパリの出身であるが、クラブのあるマルセイユを選挙区としてマルセイユのファンを取り込む。そして同じ選挙区のライバルに国民戦線のジャン・マリ・ルペンがおり、サッカーファンとアンチサッカーファンと言う構図に持ち込む。タピはサッカー人気をうまく活用してルペンを破る。タピはビジネスでも政治でもサッカーの力を活用し絶頂期にあったが、1992年のシーズン終盤のバランシエンヌ-マルセイユ戦の八百長疑惑で失墜する。
■古豪ラシン・パリとマトラのジャン・リュック・ラガルデール
そしてタピよりも一足先にサッカーの世界に入り込んできたのがジャン・リュック・ラガルデールである。名門クラブであるラシン・パリは1964年に2部に降格して以来、下部リーグで低迷していた。そこに欧州を代表する重工業企業であるマトラの会長を務めていたラガルデールがクラブを買収する。これを契機に後年日本でも活躍するピエール・リトバルスキーなどの大物選手を獲得し、1984年に20年ぶりに1部に復帰し、1987年にはチーム名もマトラ・ラシンと企業名を冠することになった。そしてパリサンジェルマンとともにパルクでプランスを共用したが、クラブは1990年に破産してしまう。
■パリサンジェルマンをビッグクラブにしたカナル・プリュス
また、ラシン・パリがパルク・デ・プランスを去った翌年の1991年には契約型テレビ局のカナル・プリュスがパリサンジェルマンの大株主となり、ビッグクラブ宣言を行う。大資本をバックにするパリサンジェルマンは好成績を続け、数多くのタイトルを獲得し、特に1996年にはカップウィナーズカップを獲得し、フランスのクラブとして唯一の欧州カップ獲得チームである。しかしながら、近年は不振であり、ついに2006年にはカナル・プリュスが撤退し、米国資本となる。そして今季は本連載でたびたび紹介している通り、降格圏内にあり、最終節を迎える段階で16位ではあるが、降格となる18位のチームとはわずかに勝ち点1であり、アウエーで最終戦を戦うことになる。
■ビッグビジネスが参入してこなくなったフランスのサッカー
このように1980年代から1990年代のフランスのサッカー界は大資本をひきつけて、欧州の場で活躍してきた。残念なことにタピもラガルデールもカナル・プリュスもクラブの運営からは手を引き、マルセイユもパリサンジェルマンもそのころの輝きはなく、ラシン・パリにいたっては下部リーグに戻ってしまった。しかしながら、今世紀になってビッグビジネスがサッカーの世界に入ってこないことがフランスのサッカーにとって課題である。
さらに言うならば、1980年代から1990年代にかけて、フランスのサッカーチームのユニフォームやスタジアムには当時世界を席巻した日本企業の広告があふれていた。1989年に松下電器産業がマルセイユの胸ユニフォームのスポンサーとなったときは欧州サッカー史上最高の金額での契約と話題になった。
フランスのサッカーは国内外のマネーをひきつける力もなくなってしまい、ファンも選手もそしてスポンサーもフランスのサッカーから離れていこうとしているのである。フランス・サッカーは危機に瀕しているのである。(この項、終わり)