第903回 天王山を終えてチュニジアと親善試合(3) スタッド・ド・フランスでの3回の不祥事
■独立戦争の末、モロッコ、チュニジアが1956年3月に独立
チュニジアは1883年にフランスの保護領となったが、反植民地運動が起こり、独立を目指す青年チュニジア党が結党される。この正統派その後ドゥストゥール(チュニジア自由立憲党)、新ドゥストゥールと姿を変え、独立運動を継続する。第二次世界大戦後、マグレブ諸国と言われるアルジェリア、モロッコ、チュニジアでは独立運動がさらに高まり、アルジェリアでは1954年に激しい独立戦争が起こる。アルジェリアが独立戦争の混乱にある中、モロッコは1956年3月3日、チュニジアは3月20日に独立を果たす。モロッコでは独立をめぐってゲリラ戦が繰り拡げられ、チュニジアでも多数の人命が失われた。
■独立の翌年に共和国になり、ハビブ・ブルギバが大統領に
フランスがモロッコとチュニジアの独立を受け入れた理由としてはフランス人の入植者がアルジェリアほど多くはなく、さらに王国として独立することを条件としたからである。チュニジアはベイと呼ばれる太守のムハマンド8世アル・アミーンを国王としたが、首相にハビブ・ブルギバが就任する。モロッコは王国のステータスを現在に至るまで維持しているが、チュニジアは独立した翌年に共和国となり、ブルギバが大統領に就任した。チュニジアの共和国化がアルジェリア独立をさらに遅らせることにもつながっているとともに、ブルギバ大統領の採った政策がこの国の近代化に大きく貢献しているのである。
とは言っても、チュニジアの政治・経済は大きくフランスに依存している。フランスに職を求めて移住してきたチュニジア人は多い。また彼らが移民として経験している苦労はアルジェリア人やモロッコ人と変わりはない。彼らにとって母国チュニジアがスタッド・ド・フランスに来ることは夢であり、強敵フランスに対して一泡吹かせるシーンを見てみたいと言うのは当然のことであろう。したがって、このところ売れ行きが停滞していたフランス代表の試合であるが、この日は多くのチュニジア系フランス人がチケットを買い求め、7万5000人の観衆が集まった。
■ラ・マルセイエーズにブーイングが浴びせられた2試合
スタッド・ド・フランスにおいて移民問題、民族問題がきっかけとなって問題が起こったのは2001年10月6日のアルジェリア戦だけではない。本連載第62回でも紹介しているが2002年のフランスカップ決勝のロリアン-バスティア戦ではコルス独立を主張するバスティアのサポーターが試合前のラ・マルセイエーズ演奏時にブーイングを行い、当時のジャック・シラク大統領が退席し、サッカー協会幹部が慰留に努め、20分遅れで試合がキックオフされた。
また、本連載では紹介できなかったが、フランスが今回の欧州選手権出場を決めた直後の2007年11月16日にモロッコと戸の親善試合が行われた。モロッコとはこれが5回目の対戦であったが、パリ近郊では初めての試合であり、パリ近郊に多く在住するモロッコ系フランス人、モロッコ人が大挙した。通常のフランス代表戦では真っ青になるスタジアムはアンフィールドか埼玉かと勘違いさせるように赤一色になる。国家演奏時にはモロッコのファンが野次、ブーイングの嵐となった。この試合にはニコラ・サルコジ大統領は列席していなかったが、関係者は冷や汗をかいたのである。
■最後のマグレブ諸国との戦いに神経をとがらせるフランス
アルジェリア、モロッコとマグレブ諸国相手の試合でトラブルが起こっており、フランス側としては同じような事態が起こることを避けるため、通常以上のセキュリティの体制を敷いた。それだけではなく、チュニジアでもフランス戦を行うことも検討され、来年11月に終わるワールドカップ予選でフランスがプレーオフに進出しなかった場合にはチュニスで試合を行う案が浮上していた。
スタッド・ド・フランスに集まった過半数はチュニジア人あるいはチュニジア系フランス人であった。試合前の国歌斉唱であるが、通常は各チームごとに分かれて整列するが、今回は両国の選手を交代に並べ、さらにエスコートキッズも交代に並べ、青いユニフォームのフランスの選手の両隣は白いユニフォームのチュニジアの選手、そして前方には白いユニフォームを着たチュニジアのエスコートキッズを配置すると言う入念な体制で国歌斉唱を迎えた。しかしながら懸念された事態が起こったのである。(続く)