第695回 リトアニア、オーストリアと連戦(1) 戦前2度のワールドカップ予選に出場したリトアニア
■リトアニアと欧州選手権予選、オーストリアと親善試合
前回までの本連載で紹介したとおり、クラブレベルの欧州の戦いであるチャンピオンズリーグとUEFAカップにおいてフランス勢は8強に残ることができず敗退してしまった。
クラブレベルではフランスのサッカーファンの楽しみは国内タイトルだけになってしまったが、代表チームに関しては欧州選手権予選が3月下旬に控えている。本連載でもたびたび紹介しているが、昨年秋に開幕し、フランスのこれまでの成績は3勝1敗、グラスゴーでスコットランドに負けた以外は、ホームのイタリア戦も含めて勝利している。フランスの所属するグループBはスコットランドとフランスが3勝1敗(勝ち点10)、イタリアが2勝1分1敗(7)、そして1試合少ないウクライナが2勝1敗(6)、リトアニアが1勝1分1敗(4)となっている。そしてそれ以外にグルジアが1勝3敗(3)、フェロー諸島が4敗(0)が下位グループを形成している。
3月下旬には24日と28日がインターナショナルマッチデーとなっており、欧州予選がこれらの日に行われる。フランスは24日にアウエーでリトアニアと対戦し、28日は予選の試合がなく、この28日に開催国のオーストリアと親善試合を行う。タイトルマッチを行った後に親善試合を行うということは、フランスの照準がこの予選突破ではなく、来年の本大会での上位進出であることを物語っている。
さて、フランスはこれがリトアニアとの初対戦となる。リトアニアについては伝統的に盛んなバスケットボールについて本連載で取り上げたことがあるが、サッカーは初登場である。
■長い歴史を誇るリトアニア
リトアニアというと東欧の自由化、ソビエト連邦の崩壊とともに誕生したバルト三国のうちの1つであると思われる読者の皆様も少なくないと思われるが、実は長い歴史を誇る国である。リトアニアの歴史を紐解けば、13世紀にリトアニア大公国として誕生し、14世紀にはポーランドとの連合国となる。ところがポーランドは悲劇の国である。周囲の国に絶えず干渉され、18世紀末にはポーランドは分割され、リトアニアはロシア帝国に組み込まれた。ロシアに帰属したばかりのリトアニアにはすぐに新たな主が現れた。それがナポレオンである。これがフランスとリトアニアの最初の接点である。ナポレオンはリトアニアは占領できたものの、モスクワを陥落させるにはいたらず、ナポレオンの撤退後、リトアニアは再びロシア帝国に編入される。ロシア帝国の中にありながら民族運動は高まり、常に独立を志向していたのである。
■1918年に独立宣言、1920年に独立を果たす
独立の気運が高まっていたリトアニアであったが、今度は第一次世界大戦が始まり、ドイツに占領される。その第一次世界大戦の最中、1917年にロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が誕生する。その翌年の1918年2月16日、ドイツ占領下のリトアニアは独立を宣言したのである。独立を宣言しながらも、リトアニアには苦難の時代が続く。帝政ロシア勢力、新生ソビエト連邦の赤軍、さらにはポーランド、ドイツという国外の勢力とも戦い、ようやく1920年にリトアニア共和国として独立を果たすが、戦いはなお続いた。
■1934年大会と1938年大会の予選に出場
1922年にサッカー協会も設立され、1923年にはFIFAに加盟している。エストニアと最初の国際試合を行ったのもこの年のことであった。ワールドカップについては、1930年のウルグアイ大会は不参加であったが、1934年のイタリア大会の予選に出場し、スウェーデンに敗退、続く1938年のフランス大会ではラトビアに敗退と本大会出場はならなかった。そしてその後リトアニアのサッカーは長い空白期間を迎える。その理由は明白である。ナチスのアドルフ・ヒトラーが台頭し、独ソ不可侵条約、ドイツのポーランド侵攻に伴い、リトアニアは1940年にソ連に併合されてしまったのである。そして第二次世界大戦では独ソの戦いの場となる。1941年にドイツが占領し、1944年にソ連が奪回する。
第二次世界大戦が終わり、欧州に平和が来てもリトアニアに平穏な時間は訪れなかった。時のソビエト連邦政府はリトアニア人をシベリアに追放する政策をとり、ロシア人がリトアニアに入植し、冷戦時代を15の共和国のうちの1つとして過ごした。1937年9月3日に行われたワールドカップ予選のラトビア戦を最後にリトアニア代表チームは半世紀以上試合を行うことがなかったのである。(続く)