第868回 惨敗を振り返って(2) 3回目の最下位敗退、大改革の予感
■久しぶりに国際舞台に復活した1966年ワールドカップ
過去のワールドカップ、欧州選手権で4回のグループリーグ敗退を喫しているフランスであるが、2002年のワールドカップと1992年の欧州選手権は優勝候補の取りこぼし、1978年は若手チームで力不足、と言うパターンであり、グループリーグで敗退したメンバーは大会後も継続して次の目標に向かった。
しかし、1966年のイングランドでのワールドカップの際は、これらのケースと少々異なる。フランスは1958年のスウェーデンでのワールドカップでは、準決勝でペレのブラジルに敗れながらも3位に入る。そしてその2年後の第1回の欧州選手権ではホスト国となったが、東欧勢に連敗する。1962年ワールドカップ、1964年欧州選手権と連続して本大会に出場することができず、1966年にサッカーの母国イングランドで開催されたワールドカップは久しぶりの国際舞台であった。
■今回の欧州選手権は3回目の最下位敗退
このイングランドでのワールドカップで、フランスはイングランド、ウルグアイ、メキシコと同じグループに入る。まずメキシコと対戦し、1-1のドロー、そして第2戦はウルグアイに1-2で敗れ、最終戦はイングランドとの戦いである。最終戦を迎える段階で1位イングランド(勝ち点3、得失点差+2)、2位ウルグアイ(3、+1)、3位フランス(1、-1)、4位メキシコ(1、-2)となり、最終戦でフランスがイングランドに勝てば、得失点差勝負という状況になった。(当時の勝ちは勝ち点2)ウェンブリーでフランスはイングランドと対戦したが、当時はまだ交代が認められておらず、フランスは負傷により2人が退場し、9人で戦い、0-2と敗れてしまう。結局、今回同様の1分2敗のグループリーグ最下位という成績で敗退している。これ以外にグループリーグ最下位で敗退したのは2002年のワールドカップであり、今回の欧州選手権は3回目の最下位敗退である。
■その後が対照的な2002年と1966年の最下位敗退
2002年の最下位敗退は前回の本連載で紹介したとおり、開幕直前に韓国と行った親善試合でエースのジネディーヌ・ジダンが負傷、そして開幕戦で伏兵セネガルに敗れ、そのまま復調することなく敗れ去った。しかしながら、この惨敗で代表から引退する選手はほとんどおらず、監督こそ交代したものの、2004年の欧州選手権はベスト8、2006年のワールドカップは準優勝と、V字回復を見せたのである。
ところが、1966年ワールドカップでグループリーグ最下位に終わった後、フランスサッカーは大改革に乗り出した。選手を尾幅に入れ替えただけではなく、当時のフランスサッカー協会のジャック・ブーローニュは育成体系の大幅な見直しを提唱、これが後のクレールフォンテーヌなどの育成センターの設立につながっていく。
■選手のセレクションに不満が集まるレイモン・ドメネク監督
今回の敗退も1966年ワールドカップのケースに近いであろう。監督は采配よりもむしろ、選手のセレクションについて大きな批判があがっている。例えば、第2戦の大量失点のきっかけを作ったのはベテランのリリアン・テュラムとビリー・サニョルであった。この2人の年齢はテュラムが33歳、サニョルが33歳、ベテランがスピードについて行くことができずに大量失点につながった。そして第3戦のイタリア戦では彼らを外すが、サニョルの代役はパトリス・エブラ、そしてテュラムの代役はそれまでの試合で左サイドDFを務めていたエリック・アビダルが急造ストッパーとしてピッチに送り出された。
今回メンバー入りしたストッパーはテュラム、ウィリアム・ギャラスがレギュラーで控えはジャン・アラン・ブームソン、セバスチャン・スキラッチという4人であったがフィリップ・メクセスをメンバーに入れなかったことに対する批判は大きい。また守備的MFについても同様で、マチュー・フラミニを2度にわたって最終メンバーから落としている。若手で旬の選手ではなくベテラン勢に依存した。
結局、今まで若返りをするチャンスがありながら、若返りをしなかったレイモン・ドメネク監督の責任であると言えよう。(続く)