第1165回 ルーマニア、ルクセンブルクと連戦 (6) 予選で最下位が指定席のルクセンブルク

■現前首相と会談したルクセンブルクのジャン・クロード・ユンカー首相

 満員のスタッド・ド・フランスでルーマニアに対して快勝したフランス。次の相手はルクセンブルクである。本年5月にはルクセンブルクのジャン・クロード・ユンカー首相が訪日し当時の鳩山由紀夫首相と首脳会談を行い、ユンカー首相は今月初めのASEM(アジア欧州会合)首脳会議でも日本の菅直人首相ともあっていることから日本にとってルクセンブルクは中国に次いで関心の高い国のうちの一つとなっているであろう。
 ルクセンブルクの面積はわずか2586平方キロ、人口は48万人という小国である。国名のルクセンブルクは「小さな城」という意味であり、日本の皆様であれば、ロコモティフ・モスクワ戦で天才少年と評され、その後アジアのレアル・マドリッドと呼ばれた東洋工業全盛期の中心選手となった小城得達を連想される方も少なくないであろう。

■欧州統合の中心的役割を果たしてきたルクセンブルク

 ルクセンブルクは小国でありながら、重工業中心に経済発展を遂げ、隣国のベルギー、オランダとベネルックス三国の一員として欧州統合の中心となってきた。地理的にも欧州の中心にあり、フランス革命期はフランスの支配下にあったこともあったが、その後ドイツ連邦に所属したり、ベルギーやオランダの支配下にあったりしたこともあったが、1839年にルクセンブルク大公国として独立する。そして1867年には永世中立国となり、これが事実上の独立であるといえるであろう。2度の世界大戦時にはドイツの占領下におかれ、第二次世界大戦後の1949年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、永世中立国を放棄している。そして第二次世界大戦後の新たな欧州の枠組みの中においては1952年の欧州石炭鉄鋼共同体、1957年の欧州経済共同体、1967年の欧州連合、さらには1999年のユーロ導入と欧州統合に向けての歴史的な場面に常にオリジナルメンバーとして参加している。

■ワールドカップ、欧州選手権の予選は最下位の連続

 その一方で、国の標語は「我々は独立していたい」というものであり、独立国家としての自国に誇りを持っている。ルクセンブルクのサッカーの歴史もこの国の独立心の強さを象徴していると言えよう。それはルクセンブルクのワールドカップや欧州選手権への挑戦の歴史である。
 ワールドカップに関しては最初の1930年大会こそ出場しなかったが、第2回にあたる1934年大会の予選から欠かさず出場している。また欧州選手権についても1960年の第1回大会にはエントリーしなかったが第2回大会からはワールドカップと同様に予選には出場している。しかし、これまで一度もワールドカップも欧州選手権も本大会には出場したことがない。さらにこれらのワールドカップや欧州選手権予選で本大会出場どころか予選での最下位が指定席であり、ワールドカップ予選はこれまで18回挑戦しているが、リーグ戦形式で行われた17回のうち、16回はグループリーグ最下位に終わっている。
 また、欧州選手権に関してもほぼ同様で、最初の挑戦である1964年大会はホームアンドアウエー方式のベスト8決定戦でオランダに1勝1分と勝利して、準々決勝に進出しデンマークと2試合とも引き分けになり、プレーオフで敗れたのが最初で最後の輝きであり、それ以降はリーグ戦方式で予選が行われ、11回中10回はリーグ最下位である。

■個人競技である自転車競技ではタレントを輩出

 この成績は小国であるがゆえ、団体球技での苦戦の結果であろう。ルクセンブルクは他の団体球技でもほぼ同様の戦績であるが、個人競技である自転車競技では健闘している。ツール・ド・フランスにこれまで4人のチャンピオンを輩出しており、1909年大会で優勝したフランソワ・ファベールは初めての外国人選手の優勝となり、永遠にその名は刻まれている。また現役ではフランク・シュレクとアンディ・シュレクのシュレク兄弟が世界のトップレーサーとして君臨しているのである。(続く)

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