第1292回 アルバニア、ルーマニアと連戦(2) 1992年欧州選手権予選以来20年ぶりのアルバニア戦
3月11日に起こった東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、救援活動、復旧活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■まだ対戦のないフランス-アルバニア戦とベラルーシ-ボスニア・ヘルツェゴビナ戦
残り4試合となった欧州選手権予選、そのうち2試合がアルバニアとの対戦であり、9月2日にアウエー、10月7日にホームで対戦する。今回の欧州選手権予選でまだ1試合も対戦しておらず、残りの2月で2試合を行うカードはこのフランス-アルバニアと前回の本連載で紹介したベラルーシ-ボスニア・ヘルツェゴビナという2つだけである。
■鎖国状態、ねずみ講事件、欧州最貧国
今回の欧州選手権予選でフランスにとっては未知の国であるが、アルバニアは世界の政治経済の中でも未知の国である。東欧の爆薬戸と言われるバルカン半島に位置し、20世紀初めにオスマン帝国から独立したが欧州の戦火の中に揺れ続けた歴史を持つ。そして第二次世界大戦中の1944年にソ連によって解放され、アルバニア人民共和国となり、共産主義政権が誕生した。東側諸国の一員となったわけであるが、アルバニアは孤立の道をたどる。ユーゴスラビアと断交、さらにはソ連と敵対し、中国と接近する。中国以外の国との国交がなくなり、実質的な鎖国状態になる。国民皆兵制で軍事施設に国家財政の多くを投じ、欧州最貧国となる。
1980年代後半の東欧の自由化の影響を受け、フランスを含む英国、イタリアなど西側諸国と国交を回復したが、政治的に不安定になり、反政府デモも起こり、大量の難民がフランスを含む西側諸国に流出した。アルバニア難民についてはカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「永遠と一日」で日本の皆様もよくご存じであろう。そして1991年にはアルバニア共和国となり、市場主義経済が導入されるが、アルバニアの国民の多くはねずみ講に参加し、そのねずみ講が1997年に破たんしたことから国民の3分の1が全財産を失い、国内で暴動が多発した。2009年にはEU(欧州連合)加盟申請を行っているが、現在の経済状況ではその道のりは厳しいと言わざるを得ない。
■フランスが苦戦した最初のアルバニアとの対戦
長年鎖国状態が続き、東欧の自由化以降も経済面では欧州最貧国のポジションから抜け切れていないアルバニアであるが、サッカーの世界でもまだ欧州や世界の舞台に立ったことはない。鎖国状態の時代もワールドカップや欧州選手権の予選に出場していたが、常に予選敗退であった。
フランスとアルバニアがこれまでに対戦したことは1度だけ、1992年欧州選手権予選で同じグループになった。1980年代のフランスは、1992年ワールドカップ3位、1984年の欧州選手権優勝、1984年のオリンピック優勝、1986年ワールドカップ4位と黄金時代を迎えたが、1988年欧州選手権、1990年ワールドカップと連続して予選で敗退してしまう。したがって1992年欧州選手権予選もスペイン、チェコスロバキアという強国と同じグループに入ってしまった。当時の欧州選手権は本大会に開催国を含む8チームしか出場することができず、フランスはこれら2か国に加え、アイスランド、アルバニアと言うメンバーの中で予選を戦った。
結果的にはこの予選でフランスは8戦全勝することになるが、この8試合の中でフランスが一番苦戦したのが1990年11月17日にティラナで行われたアウエーでのアルバニア戦である。この段階でアルバニアはフランスをはじめとする他の国々と国交を回復しておらず、この試合はフランスにとっては初めてのアルバニア戦となった。他国と国交がなかったことからアルバニアが絡む試合日程は変則的であり、アルバニアは1試合しか消化していなかった。この初めてのアルバニア遠征、フランスはマニュエル・アモロス、ジャン・ピエール・パパン、エリック・カントナなどが負傷のためメンバーから外れる。1万5000人の観衆の前でバジル・ボリが前半にヘディングシュートで先制したが、追加点を奪えず、結局1-0と辛勝する。
■開始34秒での先制点、ゴールラッシュの大勝から20年ぶりの対戦
一方、その半年後の1991年3月30日のパリでのホームゲームはこの予選で一番楽な試合展開となった。パパン、カントナもそろい、主将はアモロスが務める。開始わずか34秒でフランク・ソーゼーが先制点、この記録はまだ破られていない。フランスはゴールラッシュで5-0と大勝し、予選開幕以来5連勝、グランドスラムへ大きく前進した。そして両国はそれ以来20年ぶりの対戦となるのである。(続く)