第3080回 中盤戦を迎えたチャンピオンズリーグ(6) リスボンでの試合はベンフィカとドロー
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■ルス競技場を苦手とするパリサンジェルマン
全勝同士が中盤戦で戦うパリサンジェルマン-ベンフィカ(ポルトガル)戦、10月4日の第1戦はリスボンのルス競技場、かつては収容人員12万人であり、北半球最大の競技場と言われたが、2004年の欧州選手権開催を機に立て替えられ、現在の収容人員は6万5000人、ほぼ満員の観客が集まった。
前回の本連載で紹介した通り、パリサンジェルマンはこれまでにベンフィカと3回対戦しているが、リスボンでの試合はいずれもこの新しいルス競技場で戦い、いずれも敗れている。また、パリサンジェルマンがこれまでに唯一戦ったチャンピオンズリーグの決勝は2020年の夏にバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)と対戦したが、その舞台がこのルス競技場であったが、0-1と敗れており、相性の良くないスタジアムである。さらにベンフィカはルス競技場ではチャンピオンズカップ時代はマルセイユに準決勝で勝利したことで有名であるが、チャンピオンズリーグとなってからもフランス勢に対して5戦全勝である。
■日本サッカー協会創立50周年を記念して訪日したベンフィカ
日本サッカー協会がまだ日本蹴球協会と名乗っていたころ、その創立50周年を記念して訪日したのがベンフィカであった。ちょうどパリサンジェルマンが設立したのとほぼ同時にベンフィカは日本で試合をしており、パリサンジェルマンよりなじみが深いという日本の皆様も少なくないであろう。
ただ、パリサンジェルマンとベンフィカも人的な交流がある。その代表がブラジル代表でかつて名古屋グランパスに所属したバウドであろう。1990年代前半にパリサンジェルマンで活躍したバウドはベンフィカから移籍してきて、ベンフィカに戻っていった。そしてそこから日本へと旅立ったのである。ルス競技場の一角でバウドとパウレタが並んで観戦した。パウレタはかつてのパリサンジェルマンの選手、ベンフィカに所属したことはないがポルトガル代表として活躍した。
■3バックシステム、3人のスター選手が攻撃陣を形成するパリサンジェルマン
ルス競技場での初勝利を目指すパリサンジェルマンはシーズン当初から3バックシステム、リオネル・メッシ、ネイマール、キリアン・ムバッペの3人の攻撃陣を堅持し、この試合も同様のシステムで臨む。3バックはプレスネル・キンペンベが不在のため、セルヒオ・ラモス、マルキーニョス、ダニーロ・ペレイラが務める。
試合は立ち上がりからアウエーのパリサンジェルマンが攻め込む。6分にはCKのチャンス、メッシの蹴ったボールをセルヒオ・ラモスがヘディングでゴールを狙うが、枠を外れる。ベンフィカの最初のチャンスは8分、ゴンサロ・ラモスがマルキーニョスとの空中戦に勝ってゴールを脅かすが、これはパリサンジェルマンのGKジャンルイジ・ドンナルンマが防ぐ。パリサンジェルマンが優位に試合を進めていく中で、その後もベンフィカはパリサンジェルマンのゴールに迫り、決定機の数はベンフィカが上回ったが、ドンナルンマが先制を許さなかった。
■先制したが、オウンゴールで追いつかれたパリサンジェルマン
パリサンジェルマンに先制点が生まれたのは24分のことであった。ネイマール、ムバッペがボールをつないでペナルティエリア内に入り込み、ネイマールはラストパスをメッシに配給する。これをメッシは左足でシュート、待望の先制点が入った。優位に試合を進めていたパリサンジェルマンであるが、これが2本目のシュート、最初の枠内シュートであった。
少ないチャンスをシュートに繋げるベンフィカ、40分過ぎにパリサンジェルマンのゴール前に攻め込む。エンゾ・フェルナンデスの右からのクロスをセルヒオ・ラモスがクリアできず、さらにダニーロ・ペレイラが自らのゴールに入れてしまった。パリサンジェルマンのオウンゴールでベンフィカは追いついた。
後半に入って勝ち越しを狙うパリサンジェルマンは開始早々にネイマールがゴールを狙うが、バーに嫌われる。前半同様、ボール支配率で上回るパリサンジェルマンは、後半は積極的にシュートを放つ。しかしながら勝ち越し点を奪うことができず、1-1のドロー、パリサンジェルマンは9年ぶりのチャンピオンズリーグ前半戦3連勝を逃したのである。(続く)