第3192回 フランスカップ、トゥールーズ優勝(5) 新旧2つのトゥールーズFC

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■1937年に発足した旧トゥールーズFC

 今回で106回目となるフランスカップの決勝はナントとトゥールーズの顔合わせとなった。ナントは昨年に続く決勝進出でこれが10回目の決勝、対するトゥールーズは優勝した1957年以来66年ぶりの決勝となる。両チームの共通点としては、主要都市に存在するクラブであるが、現在のクラブの歴史は比較的浅いことである。ナントは第二次世界大戦中の1943年、ナント市内にあった5つのクラブを合併して発足した。
 一方のトゥールーズは現在のクラブの発足は1970年であるが、それまでに同じ名前のトゥールーズFC(以下旧トゥールーズFC)というクラブが市内に存在していた。1930年代にフランスリーグがスタートしたことに触発されて多くのクラブが誕生したが、旧トゥールーズFCも市内の複数のクラブを合併する形で誕生した。フランスリーグは優勝することができず、最高成績は1954-55シーズンの2位であるが、フランスカップは1957年に優勝している。またUEFAカップにも1967年に出場経験がある。

■経営危機を迎え、政治的な理由からレッドスターと合併した旧トゥールーズFC

 しかしながらクラブは1967年に経営危機を迎える。クラブは自治体等に援助を申し出たが、クラブを存続させることは困難となり、パリ近郊にある名門レッドスターと合併することとなったのである。旧トゥールーズFCが遠く離れたパリ近郊のクラブと合併したことを不思議に思われる方は多いであろう。これを解明するには時の会長を紹介する必要がある。旧トゥールーズFCの最後の会長は1961年に就任したジャン・バプティスト・ドゥマンである。別名「赤い富豪」と呼ばれたが、もともとは共産党員であり、第二次世界大戦中はレジスタンスの闘士として活躍し、戦後は政界で活躍するとともにビジネスマンとして富を築いたことから「赤い富豪」と呼ばれたのである。クラブが経営危機に陥った時にまず頼りにしたのがトゥールーズ市である。ところが、当時のトゥールーズ市長のルイ・バゼックは社会党であり、ドゥマンの申し出を拒絶したのである。ドゥマンが次にターゲットとしたのがパリ近郊で共産党の牙城と言われるサントゥーアンにあるレッドスターである。当時のレッドスターは2部リーグで低迷していたが、旧トゥールーズFCとの合併により、1部に復帰することができた。そのように政治面、経済面、競技面で利害の一致した両クラブは合併し、トゥールーズからプロサッカーチームはなくなってしまったのである。

■1970年に誕生したウニオン・スポルティブ・ド・トゥールーズ

 トゥールーズからプロのクラブがなくなって3年、1970年にウニオン・スポルティブ・ド・トゥールーズという名のクラブが誕生したのである。ウニオン・スポルティブ・ド・トゥールーズは旧トゥールーズFCとは別のクラブであったが、市民に愛され、市営競技場の使用を許可された。この市営競技場は後に日本がワールドカップで初めての試合となるアルゼンチン戦の会場となったので、日本の皆様はよくご存じであろう。さらにトゥールーズに移り住んだジュスト・フォンテーヌが監督を務めたことは本連載でも紹介した。

■トゥールーズFCと改名し、有力選手を補強し、1部に定着

 ウニオン・スポルティブ・ド・トゥールーズは2部からスタートし、1979年にはクラブ名を現在のトゥールーズFCと変更し、プロクラブのステータスを得る。このことから各種記録は現在のトゥールーズFCと通算して扱われることが多い。
 1980-81シーズンは2位となり、1部との入替戦をトゥールと戦ったが、1分1敗で昇格はならなかった。クラブは経営陣を変え、一旦は引退した元オランダ代表のロブ・レンセンブリンクを補強した。レンセンブリンクはシーズン途中でリタイアしたが、トゥールーズFCは2部で優勝し、1982年に1部に昇格する。1部昇格後はクリスチャン・ロペス、ジェラール・ソレール、ヤニック・ストピラなど1980年代のワールドカップで活躍する選手、1978年のワールドカップで優勝したアルゼンチン代表のアルベルト・タランティーニを獲得する。精力的な補強によりチームは1部を維持し、1990年代後半から2000年代初めにかけては2部に沈んだが、2003年には復活、再び1部で活躍するが、2020年に2部に陥落、2シーズンかけて1部に復帰したのである。(続く)

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