第110回 ニースの快進撃(1) 古都ニースの赤い鷲
■第4節で首位に踊り出たニース
8月初めに開幕したフランスリーグ。本連載の第97回から第99回にかけて、開幕前後の様子についてレポートしたが、それから6週間。全38節のうち7節が終了した。第97回から第99回の連載では前年の覇者リヨンを中心に紹介したが、序盤は節ごとに首位が入れ替わると言う混戦となった。まず、第1節ではモナコ、第2節ではナントが首位に立つ。モナコは3季前、ナントは2季前にそれぞれリーグを制覇しながら、その後低迷したチームであり、復活の兆しを見せる。そして第3節では開幕戦で前年の覇者リヨンを破ったガンガンが首位になる。ところが、第4節で首位に立ったのは本連載の読者の皆さんにはなじみの薄いOGCニースというチームであった。
■紀元前から続くニースの歴史とその帰属先
ニースと言うと多くの皆さんは風光明媚な観光都市という理由で鎌倉と姉妹都市であることから、南仏のリゾート地であり、カンヌやモナコと同列に考えられるであろう。しかし、同じ南仏のリゾート地であってもニースはカンヌやモナコとは異なる側面を持っている。それは観光が唯一の産業であるカンヌ、モナコとは異なり、ニースはコートダジュール最大の都市であり、観光以外の産業も充実し、古い歴史を持っている点である。これがOGCニースと言うクラブを語る上で欠かせない背景となっている。
また、ニースの歴史を語る上で忘れてはならないのがニースとフランスとは異なる歴史を持っているということである。紀元前400年ころにはすでに古代ギリシャ人がニースの地に貿易都市を建設していた。自由都市となったニースはその後、ナポリ王、サボア伯、サルディーニャ王に帰属する。そしてフランス革命後の1792年、フランス革命軍がニースを占領し、ニースの住民はフランス語の使用を義務付けられるが、間もなくナポレオンは失脚、ニースは再びサルディーニャ王に帰属することになった。そしてようやく1860年、サルディーニャ王とナポレオン3世の合意により、ニースはフランスに帰属し、今日に至るわけである。このような歴史を持つニースにはごく少数ではあるが、独立を唱える住民も存在する。
■都市とチームのシンボル、赤い鷲
15世紀に誕生したニースの紋章は王冠を載せた赤い鷲である。サッカーボールの上に王冠を載せた鷲が鎮座したエンブレム、赤と黒の縦縞のユニフォームで「鷲」というニックネームを持つサッカーチーム、それがフランスリーグで首位を走るOGCニースである。上記のような歴史を持つニースにサッカークラブが発足したのは1904年。FIFAが設立され、フランスが最初の国際試合を行った年のことである。サッカークラブも都市同様長い歴史を持ち、サッカークラブの成立はニースがフランスに編入されてからわずか40数年後のことであり、地域に密着した熱烈なサポーターを有することでも有名である。町で見かける人々のほとんどが居住者ではなく観光客であるカンヌやモナコでは、ホームチームが閑古鳥の鳴くスタジアムで戦っているが、40万人近い住民を抱えるニースではサポーターがゴール裏の金網を揺るがしながら応援を続けているのである。
■栄光の1950年代とその後の低迷
しかし、そのニースも栄光にたどり着くまでには時間がかかった。1939-40シーズンは欧州が戦火に見舞われ、フランスリーグは北部ゾーン(10チーム)、南東部ゾーン(5チーム)、南西部ゾーン(6チーム)の3つに分割されて行われた。南東部ゾーンのニースはマルセイユ、サンテエチエンヌ、カンヌなどをおさえて優勝したが、プレーオフで敗れ、フランスリーグを制覇することはできなかった。ニースに栄光が訪れたのは1950年代のことである。1950-51シーズンにニースはリーグを初めて制覇する。翌シーズンはリーグを連覇し、あわせてカップを獲得し、二冠を達成する。この1950年代はニースの黄金時代であり、リーグ制覇4回、カップ獲得2回という輝かしい成績を残し、北東部のランス(Reims)との二強時代を築いたのである。また、欧州チャンピオンズカップに2度出場し、いずれも1回戦、2回戦を突破しながら準々決勝で伝説のチームと呼ばれ欧州の頂点にたったレアル・マドリッドに敗れている。
ところが、ニースがフランスに帰属して100年を迎えた1960年代になると、低迷する。1960年代後半から1970年代にかけてUEFAカップに出場したこともあったが、1978年のフランスカップの決勝でミッシェル・プラティニの決勝ゴールによりサンテエチエンヌに敗れたのを最後に、赤と黒の縦縞のユニフォームは桧舞台から姿を消したのである。(続く)