第124回 パリサンジェルマン対マルセイユ(2) ライバル関係が変化し、強化された1990年代

■サッカーの都・マルセイユとサッカー不毛の地・パリ

 前回紹介した通り、このカードは特別な試合であるが、そのボルテージが上がってきたのは1990年あたりからである。パリサンジェルマンとマルセイユのリーグ戦での初対決は1974-75シーズンが最初である。伝統を誇るマルセイユと首都パリのチームの対戦ということで注目を集めていたが、その戦いが単なるスポーツの試合としての関心だけではなく、社会問題までに関心を集めるようになったのは最近のことである。1899年設立のマルセイユは低迷期もあったが、数多くの栄光を獲得してきた。一方、パリサンジェルマンが1973年に誕生するまで、パリならびにその近郊のクラブはフランスサッカーの黎明期にスタッド・フランセ、ラシンパリ、パリFC、レッドスターが栄冠に輝いたものの、1949年にフランスカップをラシンパリが制覇して以来、タイトルを獲得することはなかった。したがって、マルセイユの市民は「サッカーの世界ではマルセイユこそフランスの首都」というプライドを持ち、一方の首都パリはサッカー不毛の地としてマルセイユに対してコンプレックスを感じていた。
 一般的に、欧州の首都には強豪チームが存在する。もちろん、東西ドイツ統合前のボンのように、都市そのものの規模が小さい場合、強豪チームが存在しないケースもあるが、首都でありかつ大都市であるにもかかわらず、強豪チームが存在しないという例はパリサンジェルマン誕生前のパリだけであろう。

■パリサンジェルマンの誕生からビッグクラブ化まで

 そこに登場したのがパリサンジェルマンである。設立して10年も経たない1982年にはフランスカップを制覇し、パリに33年ぶりのビッグタイトルをもたらしたのである。翌年もフランスカップを連覇し、1985-86シーズンにはリーグを初制覇し、パリのチームとして実に50年ぶりの快挙となったのである。欧州の首都と言われながらサッカーでは不毛の地であったパリをパリサンジェルマンは変えたのである。
 1980年代半ばに2部に低迷していたマルセイユは、大物会長のベルナール・タピが就任し、巻き返しを図る。大型補強を繰り返し、1部復帰、1989年には13年ぶりのリーグ制覇を果たし、5連覇が始まる。一方、パリに関しては、1990年にラシンパリが財政難のためにプロリーグから姿を消し、パリで唯一のプロチームとなった。そして1991年には契約型テレビ局のCanal+が資本参入し、マルセイユに一歩遅れてビッグクラブ路線を歩むことになった。1990年代初めに彼らはビッグクラブを目指すライバルとなったのである。

■マルセイユの凋落と新たなライバル関係

 そしてこの数年、この試合に対するボルテージが上昇してきた。その理由としてはマルセイユの凋落があげられる。5連覇していたころのマルセイユにとってパリサンジェルマンは敵ではなかった。パリサンジェルマンがマルセイユをライバル視してビッグクラブ宣言をしても、マルセイユの目指すところは欧州制覇、マルセイユのライバルはACミランであり、パリサンジェルマンを歯牙にもかけなかった。ところが、5連覇の最後の年に実現したかに思えた欧州制覇もならず、1994年には八百長疑惑で2部に降格させられる。国内でもタイトルとは無縁となると、欧州制覇は現実的ではない目標となった。マルセイユの欧州での活躍は1998-99シーズンのUEFAカップが最後である。モスクワでの決勝に進出したマルセイユは創立100年をビッグタイトルで飾りたいところだったが、パルマに0-3と完敗してしまう。欧州制覇どころか国内のビッグタイトルからも遠ざかったマルセイユにとって立場の入れ替わったパリサンジェルマンを倒す、ということは「サッカーの都」を守ることに他ならない。

■立場の替わったマルセイユの対抗心

 パリでの過去の対戦成績をひもとくと、ホームチームのパリサンジェルマンが9勝8分5敗とリードしている。ところが、マルセイユが八百長事件による2部降格から復帰した1996-97シーズン以降の戦績は2勝2分2敗と全く五分である。マルセイユの2部復帰以降はパリサンジェルマンの方がリーグ戦で上位に位置していること、そしてホームチームが優位であることを考慮するならば、アウエーチームのマルセイユがパリサンジェルマンに対して特別な思いをもってこの試合に臨み、かつてとは立場の逆転したパリサンジェルマンと互角に戦っていると言えるであろう。このように以前はパリサンジェルマンが強く持っていた対抗心が、マルセイユが同等以上に持つようになり、近年のこのカードはますます注目を集めるようになったのである。(続く)

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