第461回 オセール、創立時の精神を受け継ぎ100周年
■ギ・ルーのクラブ、100周年を迎える
今月末のシーズン再開に向けて、各チームは合宿入りし、親善試合を重ねている。通常、親善試合は合宿地の近くで行い、観客もそれほど多くはない。しかし、その中で7月2日にオセールで行われたウクライナのシャキトール・ドネツクとの試合には通常のリーグ戦と変わらない観客が詰めかけた。それはこの試合がオセールのクラブ創立100周年を祈念して行われた試合だったからである。
オセールについては本連載でもたびたび登場しているが、第457回で紹介したとおり、名物監督ギ・ルーが1961年に就任し、長年の継続的な努力により1980年代からフランス・サッカーのトップレベルに姿を現し、1990年以降はリーグ、カップ、そして欧州カップですばらしい成績を残してきた。読者の皆様もギ・ルーのクラブという印象が強いであろうが、実はギ・ルーが登場するまでにすでに55年の歴史を有しているのである。
■カトリック教会が設立した若者向けのクラブ
オセールのクラブの正式名称はオセール青少年団、1905年のクラブ発生の経緯が興味深い。もともとはカトリック教会に付属した若者向けのクラブとして誕生した。当時のデシャン修道院長がこのクラブ発足に尽力したが、デシャン修道院長の提案により、クラブのマークにはマルタ十字が表されているのである。
■若者の健全な育成を目的としたクラブ
クラブはサッカーだけではなく、音楽、体操、そして軍隊入隊の準備クラスからなりたっていた。クラブとして最初の試合は1905年11月5日のルパン・ド・ブルゴーニュ戦である。そして地元に密着したクラブであり、競技志向ではなく、あくまでも健全な若者の育成を図ることが目的であった。そして運営主体が教会であったことから地元の信者から土地の寄進も多く、クラブはオセールという小さな町の中でグラウンドをたくさん作っていったのである。これが後にオセールの栄光を支える育成機関のインフラストラクチャーとなったのである。
勝つためのサッカーはこの時代のオセールには必要なかった。オセールはフランス・サッカー協会主催の大会に参加するのではなく、各地の同じような教会付属のクラブと対戦していたのである。オセールがフランスリーグの下部リーグであるブルゴーニュリーグに参加したのはクラブ設立後四半世紀たった1931年のことである。また、本拠地であるート・ド・ボー競技場の客席はわずか150しかなく、あくまでも「するスポーツ」の機会をこのクラブは地元の若者に提供していたのである。
■ルー監督就任後も継承された創設時の精神
競技志向でなかったオセールというクラブに監督は1946年まで存在しなかったのである。第二次世界大戦後の復興期には2つの動きがあった。まず、1946年にピエール・グロスジャンが初代の監督としてオセールにやってきたこと、そして1949年にクラブの創設者であるデシャン修道院長が逝去したことである。ルート・ド・ボー競技場はその翌年にアベ・デシャン競技場と改称され、従来の地元の若者の育成のためだけではなく、より高いレベルを目指すようになったのである。
そして1961年にルーがプレイング・マネジャーとして監督に就任し、1970年に3部に昇格、1974年に2部昇格、1979年にフランスカップ決勝に進出、1980年に2部リーグで優勝して1部に昇格した。その後の今日までの活躍については改めて紹介する必要はないであろう。
ここで、注目すべき点が3つある。まず、オセールというクラブが長年アマチュアのステータスを保ってきたことである。1980年に1部に昇格するまで、このクラブはアマチュアのクラブであった。これはクラブの目的が覇権を握ることでもなければ、ビジネスで成功することでもなく、純粋に若者の健全な育成を願うという宗教的なものであったからである。
第2点として先述したように豊富なグラウンドは多くの若手選手を輩出した。親のいない恵まれない少年を集め、オセールの町に住ませてサッカー選手として育成した。そして信者から寄進された土地に芝生を敷いたグラウンドでプレーした。これもカトリックのクラブならではのことであろう。
そして第3点は1980年の昇格以来一度も2部に降格していないことである。現在、オセールよりも古くから1部に在籍しているチームはナント、パリサンジェルマン、モナコの3チームだけである。
100周年を迎えたオセールがその創設時の精神を忘れることなく、更なる発展をすることを願いたい。(この項、終わり)