第546回 2005-06リーグカップ(2) ナンシー、プラティニ時代以来のタイトル獲得

■28年前のフランスカップ決勝の再戦となったナンシー-ニース戦

 4月22日に行われるリーグカップの決勝はナンシーとニースと言う顔合わせとなった。日本のファンの皆様は地味なカードとなったという印象を持たれたかもしれないが、フランスではオールドファン中心に関心を集めた。
 赤と黒の縦縞のニースは古豪と言われ、100年以上の歴史を有するクラブである。全盛期は1950年代であり、これまでのタイトルはリーグ優勝が4回、フランスカップ獲得が3回であるが、このうち4回のリーグ優勝、2回の優勝は1950年代のことであり、1950年代以外のタイトルは1997年のフランスカップだけである。一方のナンシーはロレーヌ地方の中心都市であり、クラブの正式な名称なナンシー・ロレーヌ・スポーツ協会である。ロレーヌ地方は古くから外敵との戦いにさらされ、15世紀にはブルゴーニュのシャルル突進公がこの地に攻め込むがルネ2世がロレーヌを守る。「それに触れれば刺される」という格言からアザミがナンシーの市章となり、アザミはクラブの象徴でもある。ちなみにアザミはスコットランドの象徴でもあるが、スコットランドもナンシー同様にイングランドから攻撃を受け、守りきり、今日に至っている。ナンシーはこれまでにリーグ優勝の経験はなく、これまでに獲得したタイトルは1978年のフランスカップだけであるが、この時の決勝の相手がニースなのである。

■ミッシェル・プラティニの唯一のフランス国内でのタイトル

 28年前のフランスカップの決勝と今回のリーグカップの決勝の組み合わせが同じだからと言って大騒ぎする必要はないと日本の読者の皆様は思われるであろう。しかし、1978年5月13日に行われたこの試合はフランス人にとっては特別な試合なのである。この年のフランスカップは準々決勝に残った8チームが全て1部リーグのチームであり、これは第二次世界大戦後初めてのことであったが、決勝に進出したのはナンシーとニースであった。
 ナンシーは1967年設立と言う若いクラブであり、このクラブの歴史を作ったのは地元出身の1人の若い選手であった。バレリー・ジスカールデスタン大統領の臨席の下、ニースが優勢に試合を進めるが、後半に入って57分に見事なゴールが決まり、これがこの試合唯一のゴールとなり、ナンシーがフランスカップを獲得する。このゴールを決めた選手はクラブの歴史だけではなく、フランス、そして世界のサッカーを変える。その選手の名はミッシェル・プラティニである。
 ナンシーでプロデビューしたプラティニはその直後に行われたワールドカップ・アルゼンチン大会で活躍し、将軍プラティニとなる。そして1979年には当時のフランスを代表するクラブであったサンテエチエンヌに移籍、1982年にはイタリアのユベントスに移籍する。数多くの栄冠を手にしたプラティニであるが、フランス国内でのタイトルは実はこの1978年のフランスカップだけである。プラティニは現役引退後もフランス代表監督に就任するまでナンシーのクラブのフロントを勤めていた。

■今年2試合目のスタッド・ド・フランスでの試合に代表戦を2万人上回る観衆

 低迷する代表チーム、フランス勢が頂点に届かない欧州カップを見るにつけファンはプラティニ時代を懐かしく思い、将軍プラティニを回顧させる今回のリーグカップの決勝には例年にはない注目が集まったのである。
 スタッド・ド・フランスでは両チームの18歳以下のチームの試合が前座試合として組まれ、キックオフはボクシング界のスターでホン連載第460回でも紹介したマヤル・モンシプールである。観衆は7万6000人、今年になってスタッド・ド・フランスでサッカーの試合が行われるのはこれが2試合目、もう1試合は3月1日に行われたフランスとスロバキアの代表チームの親善試合であるが、この試合の観衆はリーグカップ決勝よりも2万人少ない5万6000人にとどまっている。

■1人少ないナンシーが勝利、28年ぶりのタイトル

 ナンシーはリーグ戦でも低迷し、2月18日以来勝利から見放され、3月11日以来無得点、直前の4月15非に行われたマルセイユ戦は0-6で大敗、と言う深刻な状況である。しかし、カップファイナルがナンシーのイレブンをプラティニに変えた。23分にモンセフ・是ルカが先制点、1点リードで折り返す。後半に入って49分に追いつかれ、61分にはDFセバスチャン・プイグルニエが2枚目のイエローカードで退場となり、ナンシーは10人で戦うことになる。ところが66分にナンシーはブラジル人のキムが決勝点を上げ、10人のナンシーは残り時間を守りきり、プラティニ時代以来28年ぶりのタイトルを獲得したのである。(この項、終わり)

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