第3回 フランス代表、初のアンデス越え(3) チリ・サッカー2つのエピソード
さて、チリのサッカーというと日本では(1)で述べたヤマサキ氏が審判を務めた1962年ワールドカップ、1991年にインターコンチネンタルカップで訪日した名門コロコロ、1989年に起こったワールドカップ・イタリア大会予選のブラジル-チリ戦で起こった偽装負傷事件でFIFAから制裁を受けたことが話題になるくらいである。しかし、ここでは日本ではあまり伝えられていない2つの逸話を紹介したい。
■軍事政権下のワールドカップ・西ドイツ大会出場
まず、1974年のワールドカップ・西ドイツ大会の際のエピソードである。チリは1970年に選挙によって左翼政権が成立している。サルバドール・アジェンデ大統領は民主主義を貫き、米国系企業の国有化、農地改革などにより社会主義社会の実現を目指した。しかし急激な改革は大きな痛みを伴い、国内が混乱しただけではなく、アメリカのニクソン政権は報復として経済援助や融資を停止し、1972年10月の全国ストライキを契機として国内は大混乱する。そして1973年9月11日にはクーデターが勃発し、アウグスト・ピノチェが軍事独裁政権を発足させる。アジェンデ大統領は壮絶な死を遂げ、いまだにそれは自殺なのか他殺なのか闇の中である。
ちょうどこの時期、ワールドカップ・西ドイツ大会予選は佳境を迎えていた。南米地区のチリは欧州地区のソとプレイオフを行っており、モスクワでの第1戦を首尾よく0-0で引き分けに持ち込み、ソ連をサンチアゴに迎えることになった。しかし、クレムリンはチリとのプレイオフ第2戦をボイコットし、西ドイツ行きのチケットをチリに譲ることとなった。もちろん、ソ連のボイコットの理由は当時のチリの治安状況(サンチアゴの国立競技場は集会が行われただけではなく、大統領派の国民的英雄の歌手は国立競技場に拉致された群集の前で腕を切り落とされ、それでも歌いつづけると言った彼は衆人監視の前で殺されてしまう。)だけではなく、このクーデターが米国資本によって導かれたものであったということも考えられる。
■西ドイツでのチリイレブンの勇気ある発言
国際世論を敵に回して西ドイツ行きのチケットを手に入れたチリ代表イレブンであったが、西ドイツでの本大会では逆に世界中の共感を集めることとなる。この大会では各国にはナショナルカラーのバスが用意された。当然ロハ(スペイン語で「赤」という意味)というニックネームのチリ代表のバスは赤色であるべきだが、警備上の問題から目立たない鉛色のバスに乗って移動することになった。戦績こそグループリーグで1分2敗であり一次リーグで敗退してしまったが、彼らの多くは反軍事政権派であり、彼らのメッセージは世界中に届くこととなる。第2戦の東ドイツ戦ではグラウンドの中央に「打倒軍事政権」と大書された横断幕が掲げられる。チーム内には主将のフィギュロンなど軍事政権派の選手もおり、不仲が噂されたが、反軍事政権派のFWの選手はこの横断幕を見て「ピッチに入れば政治的な立場を忘れるべきである。我々は勝利を目指し、その勝利をクーデターの犠牲となった人々に捧げられるべきである。そして新しいチリを建設していくのだ。」と力強く述べた。チリイレブンは国内の政治的な状況について発言することを禁止されており、秘密警察が反軍事政権派の選手を監視している中で、このような発言をし、このチリイレブンの勇気ある発言は世界に向けて大きなメッセージとなったのである。米国との間に安保条約の存在する日本で「西ドイツ大会=クライフ」という図式となるのも無理はないであろう。
■ワールドユース・日本大会予選の偽造パスポート事件
そしてその5年後、1979年に日本中が空前絶後の熱狂の渦に包み込まれた第2回ワールドユースの南米予選がウルグアイで行われた。チリは南米予選で姿を消すが、サンチアゴで20人の選手を待っていたのは予選落ちに憤るフーリガンでもなく、健闘をたたえるサポーターでもなく、警官たちであった。なんと20人中17人がパスポートを偽造していたのである。
この事件は軍事独裁政権下では秘密裡に扱われ、関係者は口止めをさせられ、当時のサッカー協会会長は突然ニカラグア大使に任命された。報道関係も軍事政権下でコントロールされ、この事件が裁判の場で公にされたのは1984年のことであった。この事件がワールドユースの大会前に日本で報道されたならばサッカー界のダメージは大きく、現在の日本サッカーの繁栄はなかったかも知れないだろう。(続く)