第5回 フランス、アルジェリアと初対戦(1) 特別な意味を持つアルジェリア戦

 チリに不覚をとった王者フランス。年間で早くも3敗を喫し、次の対戦はアルジェリアである。このアルジェリア戦については単なるサッカーの試合ではなく、サッカーの試合を契機に両国間の過去を振り返ることになり、多くの社会的な注目を集めている。アルジェリア戦に関しては複数回にわたりこのコーナーで紹介することとなるが、今回はアルジェリア戦が持つ特別な意味について紹介したい。

■哲学者ジャン・ポール・サルトルとアルジェリア

 日本の若者がジャン・ポール・サルトル離れを見せて久しいと言う。日本の書店や大学生協には以前は必ずサルトルコーナーがあったものである。サルトルの「実存主義とは何か」「嘔吐」と言った名作は日本の大学生ならば誰もが読んだことのある本であり、サルトル好きの日本人の必読書であった。しかし、時代は変わり、単純なる活字離れと言うだけではなくサルトルとシモーヌ・ボードリヤールが訪日し、熱狂的な歓迎を受けた面影は日本にはなくなった。
 このように、昔日を懐かしんでいたところ、朗報を得た。数年前に絶版となってしまった10巻からなる大作「シチュアシオン」のうち半分にあたる5巻が日本の意欲的な研究者によって改訳・再編集されることになった。その記念すべき最初の巻が植民地主義、植民地戦争、非植民地化をめぐってのテクストを一巻におさめた「植民地の問題」である。サルトル自身のインドシナ戦争、アルジェリア戦争と2度にわたる植民地側の人間としての経験がサルトルの植民地に関する講演や著作の基礎となっているわけであるが、サルトルがより深く関与したのはアルジェリア戦争である。植民地に関する問題がアルジェリアに凝縮されていると言う思いはそしてサルトルだけではなく、多くのフランス人に共通することであろう。シチュアシオンの改訳・再編集がまず「植民地の問題」から着手されたことについて関連する研究者諸氏の慧眼に拍手を送らなくてはならない。

■特別な植民地アルジェリア

 フランスは数多くの植民地を抱えていたが、これがアルジェリアとなるとその思いは複雑である。アルジェリアが地中海を挟んだフランスに支配されたのは1834年のことである。それ以来、フランスは130年近くに渡ってこの地を支配してきた。そして100万人以上のフランス人が入植し、アルジェリアは他のフランス植民地とは異なり、海外直轄県として強い支配を受けた。入植したフランス人はフランス風の生活を謳歌していた。1900年代に入り、民族主義運動、独立運動が存在していたが、それが2回の世界大戦の後に機運が高まり、1954年にアルジェリア独立戦争が始まる。1962年まで続いたこの戦争はアルジェリア側に100万人、フランス側に10万人の犠牲者を出し、多くの尊い命を失い、アルジェリアは独立を勝ち取るわけであるが、他の植民地の独立と異なる点がいくつかあり、それがサルトルをはじめとする多くのフランス人に特別な感慨を抱かせるのであろう。
 まず、フランス側がこの戦争を独立戦争であるとは認めず、「フランスの秩序を乱す内乱」と捉えていたことである。これはフランスがアルジェリアを他の植民地と一線を画し、強い支配力を行使し、本国の一部として捉えていたことが理由として考えられるであろう。フランスがこの戦争を内乱ではなく独立戦争である、と認めたのは戦争が終結して40年近く経った1999年のことである。
 そして、多くのアルジェリア人がフランス人としていくつもの戦争を戦ったと言うことである。普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争である。第一次大戦の激戦地ベルダンでは1万5000人のフランス軍兵士が命を落とし、無数の十字架がたっている。しかし、そのうちの600人はアルジェリア人であり、イスラム教徒である彼らの墓には十字架は存在しない。
 また、5度目の戦争となるアルジェリア戦争においても多くのアルジェリア人が「フランスの秩序」のために故国と戦い、アルジェリアで命を落としている。

■1961年10月17日 隠されたパリでの悲劇

 さらにアルジェリア戦争末期の1961年10月に隠された悲劇は起こる。すでにフランスは同年1月8日に、アルジェリア人の自主選択を認めるか否か、という国民投票を実施し、有効投票の76%、全有権者の56%の賛成を得て、アルジェリアの独立に傾きつつあった。しかし、10月6日に警官がアルジェリア民族解放戦線(FLN)に襲撃されると言う事件が起こり、パリ市警視総監のモーリス・パポンは「一発やられたら10倍にして返す」と警官の葬儀の際に発言し、パリのアルジェリア人に対し、夜間外出禁止令を命じたのである。騒然とした緊張感が高まった17日の夕方、何千人というアルジェリア人が集結し、「アルジェリア人のアルジェリア」をスローガンに夜間外出禁止令への抗議デモを行う。そして彼らに対する鎮圧は地獄絵であった。パリ市内至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われ、虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌの岸辺におびただしい数の死体が打ち上げられていっても、警察はこの死者の数を訂正しなかったと言う。
 そして、翌1962年3月18日にはエビアンで停戦協定が締結され、翌日にはアルジェリアに平和が訪れる。ようやくアルジェリアが130年に近いフランスの支配から独立を果たしたのは7月5日のことであった。このような暗い過去のあるフランスとアルジェリアの関係が今回の初顔合わせに対するフランス国民の関心を高めることになったのである。(続く)

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