第14回 フランス、オセアニアに初遠征(2) 例外だらけの豪州遠征

■史上最遠距離となる豪州遠征

 アルセーヌ・ベンゲル監督の発言から試合開催までに多くの障壁が生じることとなったが、ベンゲル監督の発言ももっともである。この試合開催までの難産については、欧州のクラブシーンの台頭が代表チームの遠征を困難にしていることも事実であるが、フランス代表の100年近い歴史の中でこの遠征が例外だらけであるということも事実である。
 まず、遠征先が2万キロ離れた豪州であり、フランス代表がフランスからもっとも離れた場所で試合を行うこと。そしてその遠征がリーグ戦のシーズン中に行われると言うことである。
 基本的にサッカーのフランス代表はワールドカップ以外で欧州外に遠征することを拒否してきた。毎年早春は欧州の五か国対抗(現在は六か国)、初夏に南半球遠征、秋には南半球のチームを欧州に迎える、というラグビーとは異なり、その活動範囲を欧州内だけに限定してきたのがサッカーのフランス代表であった。1932年のバルカン遠征を最後にフランス外務省の判断で欧州外への遠征を行わなくなったという政治的な要因ももちろん加わっている。
 その欧州内だけに活動範囲を限定してきたフランス代表が大西洋を横断するきっかけとなったのが1960年代後半の不振であり、1970-71シーズンの年末年始休暇の際に南米遠征を行った。この際、アルゼンチンでは代表と戦い1勝1敗、ブラジルとペルーでは地元のクラブチームと対戦し1勝1分1敗であった。その後も断続的に欧州外への遠征を行うが、ラグビーでは毎年のように訪問しているオセアニア地域への遠征はこれが最初である。パリからメルボルンまでの直行便はなく、パリを離陸してから南下してフランスの海外領土であるレユニオンに給油等のために立ち寄り、そこからインド洋を東進して豪州大陸の南東にあるメルボルンにたどり着く。試合があるのは11日であるが、パリを出発するのは7日朝、メルボルン到着は翌日の夕方である。また試合は現地時間で20時にキックオフされるため、復路の飛行機に乗るのは試合の翌朝となり、パリには12日の深夜に戻ってくる。フランス代表の選手も片道23時間という遠征に対して待遇の改善を要求し、スポンサー企業のエールフランスは移動に使う飛行機を1億円以上かけて改造することになった。

■異例となるシーズン中の欧州外への遠征

 このような長旅がシーズン中に行われることもまた異例である。通常、代表やクラブチームの遠方への遠征はシーズン終了後か年末年始のリーグ中断期間中に行われる。日本の皆さんもフランス代表やフランスのクラブチームが訪れた時期を考えてみればよくおわかりであろう。フランス代表が訪れたのは1994年5月と2001年6月、いずれもシーズン終了後である。またクラブチームに関しても1984年5月のトゥールーズ、1995年6月のパリサンジェルマンはシーズン終了後に訪れ、1985年1月のボルドーは年末年始のリーグ中断期間に訪日した。豪州戦前後に10日間の間隔を空けているとはいえ、実質6日間の遠征は無理なスケジュールである。また本連載の第1回から第4回で取り上げたチリ遠征もシーズン中と言うことで異例の欧州外への遠征であった。年に2回もシーズン中に欧州外への遠征を行ったということも初めてのことである。
 歴史をひもとくと、昨年までのシーズン中の欧州外への遠征はわずか1回、1979年5月に米国代表とイーストラザフォードのジャイアンツスタジアムで試合を行っただけである。本来であればこの時期にフランス代表が初めてアジア遠征を行い、イランとテヘランで対戦する予定であった。しかし、イラン革命の勃発により対戦が不可能になり、急遽代替の対戦相手を見つけ、移動にはフランスの航空技術の賜物であるコンコルドを利用し、人工芝の上で試合を行ったという経緯がある。

■欧州以外のチームとの3連戦

 そして、9月からチリ、アルジェリア、豪州と連続して欧州以外の国と対戦しているが、ワールドカップなどの国際大会を除くと欧州以外の国と3試合連続して対戦する、ということも歴史上初めてのことであろう。
 このような例外だらけの豪州遠征であるが、フランスはワールドカップを控えて多くの地域に遠征し、異なるタイプのサッカーを経験することをこの1年の目標としてきた。そして今年最後の異文化との遭遇の場はメルボルン・クリケット・グラウンド。10万人収容の円形のクリケット場である。クリケット場での試合もフランス代表の歴史の中では異例のことであろう。果たしてこのクリケット場でクリケットに語源を有するハットトリックを記録する選手はいるのであろうか。(続く)

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