第28回 2002年アフリカ選手権(3) 「黒豹」サリフ・ケイタ伝説
■1980年代の黄金の中盤を支えたジャン・ティガナ
今回のアフリカ選手権の開催地はマリ。西アフリカの貧しい国であるが、サッカーに対する情熱は他の国に負けてはおらず、ナイジェリアとガーナという共同開催の後を受けて今回の開催国となった。マリは今までワールドカップの本大会に出場したことはなく、日本のサッカーファンの皆さんにとっては今まであまり関心のなかった国であろう。ところが、この国が生んだ2人の偉大なるサッカー選手はフランスのサッカーに大きな影響を与えているのである。
まず、日本の読者の皆さんにもなじみが深いのはジャン・ティガナ。1982年、1986年のワールドカップで準決勝に進出し、1984年の欧州選手権で優勝したフランスサッカーの黄金時代の中盤を支えた選手である。1955年にマリの首都バマコで生まれたティガナは1981年にフランス代表入りし、52試合に出場、ワールドカップや欧州選手権での活躍だけではなく、1985年にボルドーの一員として訪日し、東京と神戸での勇姿が印象深い読者の方も多いであろう。現在はイングランドのフルハムの監督を務めている。
■「バマコのガゼル」サリフ・ケイタ、海を渡る
ティガナ以上にフランス人に強烈な印象を残しているのがサリフ・ケイタである。ティガナと同じバマコ生まれで、1963年に16才で最強クラブのレアル・バマコとプロ契約。同年に「エーグル(フランス語で鷲)」という愛称のマリ代表に選出される。この時期はアフリカにおいて代表レベルでもクラブレベルでも国際大会が黎明期であり、ケイタはアフリカ大会、アフリカクラブ選手権、フランス語圏アフリカカップなどで活躍した。アフリカクラブ選手権では1大会(8試合)で14得点といういまだに破られていない記録を持っている。「バマコのガゼル」というニックネームのついたケイタの活躍がフランスに伝わらないはずはない。名門サンテチエンヌのスカウトの目にとまり、ケイタはサンテチエンヌの入団テストを受ける権利を獲得する。
1967年9月14日、ケイタはパリ近郊のオルリー空港に到着する。マリでは国民的英雄であるケイタは誰も出迎えにきていないことに驚く。仕方なくケイタはタクシーに乗り、「サンテチエンヌまで」とドライバーに伝える。オルリーからサンテチエンヌまで520キロ、タクシー代は当時の金額で1000フラン(現在の金額に換算すると30万円程度か)という逸話を残している。この逸話は当時アフリカでのベストプレーヤーと言っても全くフランスでは相手にされず、またアフリカでもフランスに関する情報が少なかったことを表している。
■初代のアフリカ最優秀選手に選出
当時のサンテチエンヌの監督は1958年ワールドカップ・スウェーデン大会でフランス代表を準決勝に導いたアルベール・バトー。名将バトーはケイタの力量を見抜き、トップチームに合流させ、サンテチエンヌとケイタの黄金時代がはじまるのである。ケイタはサンテチエンヌには5シーズン在籍し、この間3度のリーグ制覇、フランスカップ1回獲得、特に1970-71のシーズンには38試合で42得点というすばらしい成績を残している。これは欧州全体を見ても同じフランスリーグのマルセイユのジョシップ・スコブラーが記録した44得点に次ぐものであり、欧州シルバーブーツを獲得している。1970年にはフランスフットボール誌がアフリカ最優秀選手賞を制定し、文句なくケイタがこの第一号の栄誉に輝いた。
■サンテチエンヌのシンボルとなった「黒豹」
そして「バマコのガゼル」は一足早くアフリカから欧州に渡って活躍したエウゼビオと同じ「黒豹」というニックネームがついたのである。黒豹というとエウゼビオだけではなく今回のアフリカ選手権に出場しているカメルーンのパトリック・エンボマも同じ愛称で呼ばれたが、ケイタが彼らと違うのは黒豹がサンテチエンヌのマスコットになり、チームのエンブレムにもなっていることである。これほど1人の選手が名門といわれるクラブのマスコットやエンブレムに影響を与えたケースは他にはないであろう。
ケイタはその後マルセイユに移籍し、スペインのバレンシア、ポルトガルのスポルティング・リスボンと渡り歩き、選手生活の最後は新大陸に渡り、ボストンのニューイングランド・ティーメンで1980年に引退する。
しかし、ケイタは戻ってきたのである。(続く)