第49回 東欧の巨人ロシアと対戦(1) 露仏同盟の証、アレクサンドル三世橋
■久しぶりのワールドカップ出場国との対戦
ワールドカップイヤーに入りフランスはスタッド・ド・フランスに欧州の代表チームを迎えて4連戦が行われている。2月13日のルーマニア戦、3月27日のスコットランド戦と連勝でスタートし、第3戦は4月17日のロシア戦である。ロシアはワールドカップ本大会の出場国であり昨年8月のデンマーク戦以来久しぶりにワールドカップ本大会出場国と対戦することになる。もっともデンマークもフランスと対戦した段階では予選突破を決めていなかったので、本大会のわずか6週間前にワールドカップ本大会出場を決めた国と初めて対戦することになる。
■明治維新以降の日仏関係
ロシアは本大会では日本と同じグループHに入っており、地理的にも近く、政治的な交流も多いことから、日本の皆さんはロシアについてはサッカーだけではなく、よくご存知のことであろう。しかし、前世紀を振り返るとロシアと日本の関係は決して密接なものではなく、日本とロシアの関係にはフランスも大きく関与している。
明治維新以降、日本の急速な近代化はフランスを含む欧州各国の協力が不可欠であった。明治初期の殖産興業の象徴とも言える富岡製糸工場はフランス人の指導によることはよく知られている。この工場の存在は英国のマンチェスターを初めとする製糸産業に大きく影響を与え、リヨンを中心とするフランスの製糸業が勝てなかったマンチェスターの製糸業をフランスの指導による日本の工場はやすやすと打ち破ったのである。また、軍事においても明治初期のフランスは日本の富国強兵に影響を与えた。すでに幕末から幕府軍に軍事協力をしていたフランスは新政府になっても日本に大きな軍事援助をしてきた。
■欧州で孤立するフランス
ところが、この明治初期から続く日本とフランスの関係は欧州情勢によって揺らぎ始めた。フランスは1870年代初めの普仏戦争に敗れ、工業地帯のアルザス・ロレーヌを奪われて国内工業が低迷し、国内に有利な投資先がなかったため国外、特にロシアへの投資が集中し、ロシアとの経済的な関係が強化した。その一方、ドイツとの緊張感、フランスにチュニジアを奪われたイタリアからの反感という近隣諸国との関係は好ましいものではなかった。ドイツの宰相ビスマルクはフランスを孤立させようと図る。ドイツは近隣のオーストリア、そしてチュニジア問題でフランスに対して不満を持つイタリアと組み、1882年に三国同盟を結ぶ。さらに英国、ロシアとも接近し、フランスはますます孤立していく。
■露仏同盟と日英同盟
ところが、フランスの外交も負けてはいなかった。フランスはロシアと交渉を進め、三国同盟に対抗して1890年代に露仏同盟という軍事秘密協定を締結した。この露仏同盟の存在は両国の軍部と外務省のごく一部だけが知るものであった。先述の経済面だけではなく軍事面についても19世紀末から20世紀にかけてフランスはロシアと急接近をしていく。そしてこのフランスとロシアの急接近は日本とロシア、あるいは日本とフランスの関係を薄くしていったのである。この時期、ロシアとフランスで活躍していた日本人というと陸軍大佐の明石元二郎であろう。その諜報活動は「5万の軍隊にも勝る役割」と称され、明石大佐は諜報活動にとどまらず、欧州各地で革命運動を支援し、日露戦争勝利の影の功労者と言われており、パリやペテルブルグの日本公使館付武官として活躍した。ところが、パリの日本公使館からの暗号電信は、実はすべてロシアからフランス警察庁への依頼により解読されていたのである。フランス警察庁は1904年に暗号解読課を発足させ、日露戦争中の日本の動きはすべてロシアに渡っていた。これも露仏同盟のなせる技であろう。
そして今からちょうど100年前の1902年、日本は三国同盟にも露仏同盟にも属していない英国と日英同盟を結ぶ。日本がはじめて締結した軍事同盟であり、この同盟の存在が日本とフランス、日本とロシアの関係を希薄にしたのである。
今回のワールドカップでも日本でグループカードを行う外国のチームの中で人気があるのがイングランド、ロシアは日本戦以外の人気はない。新世紀を迎えても日本人の英国びいきのロシア嫌いは変らないようである。
一方、フランスとロシアの絆は日英同盟の締結を機にさらに強まり、その証はパリを訪れた方ならば誰もが見ているであろうアレクサンドル三世橋である。1900年のパリ万国博覧会開催に際して、ロシア皇帝ニコライ二世が露仏同盟のロシア側の推進者であった父の名を冠しパリ市に寄贈したものである。パリ市内の橋で最も美しい、と言われているアレクサンドル三世橋の南側にはケードオルセーことフランス外務省が存在しているのである。(続く)