第186回 古豪エジプトと初対戦 (3) 第二次世界大戦前のエジプト・サッカーの活躍
■1920年アントワープ・オリンピックに出場
スエズ運河の利権を手に入れた英国はエジプトを植民地化し、第一次世界大戦の始まった1914年には保護領とした。ところが、第一次世界大戦後、エジプトでは民族運動が活発化したため、英国は保護権を停止し、1922年にエジプト王国が成立した。
エジプト王国の発足1年前にエジプトサッカー協会が誕生し、1923年には早速FIFAに加盟している。エジプト王国もサッカー協会も発足する以前の1920年にアントワープで行われたオリンピックにエジプトは参加している。第一次世界大戦も終結し、今ではおなじみとなった五輪旗が初めて使用され、世界平和を象徴する大会であった。オリンピックのサッカー競技は1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会
に続いて3回目。3回目にして初めて欧州以外からのエントリーがあり、それがこのエジプトであった。エジプトは1回戦でイタリアに1-2と敗れてしまったが、近年のオリンピックのサッカー競技での欧州勢以外の活躍を考えてみるならば、価値ある初出場であった。
■オリンピックに連続出場、パリで初勝利、アムステルダム大会で4位
続く1924年のパリ・オリンピックでは初勝利を上げている。このパリ・オリンピックのサッカー競技に出場したのは22か国であったが、エジプト以外の非欧州勢は米国、ウルグアイであり、エジプトの参加が北米、南米の国の参加を導いたと言えよう。エジプトはノックアウト方式の2回戦から参戦する。1回戦でポーランドを下したハンガリーを3-0と一蹴してしまう。準々決勝では3位になったスウェーデンに敗れるが、現在のオリンピックでは珍しくなくなった欧州・南米勢以外の初勝利はこのエジプトなのである。
1928年のアムステルダム大会にも出場し、エジプトはますます飛躍する。1回戦ではトルコと対戦する。エジプトにとって、トルコとはかつて戦争を起こしたがために英国に統治されることになってしまった因縁の相手である。エジプトはトルコに7-1と大勝し、2回戦ではポルトガルを2-1と破る。準決勝の相手は南米の強豪アルゼンチン、0-6と大敗し、3位決定戦でもイタリアに3-11と敗れるが、オリンピックで4位に入ったことはエジプト国民に大きな希望を与えたのである。
■1934年イタリア・ワールドカップに出場
1930年にワールドカップが始まるが、ウルグアイで行われた最初の大会にエジプトはエントリーせず、1932年のロスアンジェルス・オリンピックはワールドカップの影響でサッカー競技が行われなかった。エジプトは6年ぶりの世界の桧舞台として1934年のワールドカップ・イタリア大会に挑戦した。この大会から予選が行われたが、エジプトはアフリカ勢で唯一のエントリーであり、予選ではパレスチナと対戦、カイロとエルサレムでホームアンドアウエー方式の試合が行われ、いずれもエジプトが大勝し、ワールドカップの歴史にその名を残すパイオニアとなった。本大会の1回戦は、ナポリでハンガリーと対戦する。エジプトは2点先行され、一度は追いついたものの、後半突き放されて2-4と敗れるが、オリンピックだけではなくワールドカップも参加することに意義があるのである。
■サッカーの世界での国際舞台での活躍と国内の不満
第二次世界大戦前最後のオリンピックとなるベルリン大会にも出場し、準優勝したオーストリアと1回戦で対戦し、1-3と敗退している。同じく第二次世界大戦前最後のワールドカップであるフランス大会にはエントリーせず、その後長い間ワールドカップ本大会から離れることになる。
第二次世界大戦前にサッカーの世界ではアフリカ勢唯一の輝かしい成績を残していたエジプトであるが、国内の事情は苦しかった。スエズ運河の運営主体が英仏の政府出資の会社であったため、スエズ運河の通行料は地元のエジプトではなく、英仏両国の懐を潤わせることになった。スエズ運河と英仏両国の関係はかつての南満州鉄道と日本の関係であろう。特に英国はスエズ運河の様々な特権を留保したため、エジプト国民は不満を感じていた。エジプトは、1952年7月23日まで王国とは名ばかりの存在であり続けたのである。(続く)