第296回 国籍規定変更とフランス・サッカー(1) 二重国籍選手とブラジル人選手の活躍
■二重国籍の選手に関する規定の変更
今月の本連載では、チュニジアで行われたアフリカ選手権と2月18日に行われたベルギー-フランス戦を中心に紹介してきたが、この中で見逃せない動きが選手の国籍問題である。昨年10月のFIFA総会で、二重国籍を持つ選手はアンダーエイジで一方の国の代表となっても、フル代表未経験であれば、他国のフル代表になることができる、と規定を変更した。この規定変更を受けて、アフリカ選手権にはフランスと二重国籍を持ち、フランスでアンダーエイジの代表歴のある3選手(マリのフレデリック・カヌーテとラミン・シソコ、セネガルのラミン・サーコ)がアフリカの国の代表となったことを紹介した。
■フランス・サッカーを支えてきた多民族集団
この二重国籍の選手に関する規定変更はフランスにとっては大きな問題となりうる。フランスの民法は二重国籍には寛容であり、様々な条件はあるものの、アフリカ国籍の夫婦がフランスで出産し、フランスで成長すれば、その子供は二重国籍となる。フランスに住むフランス生まれの二重国籍の若者がサッカーの世界で頭角を現してきた時、まず彼らに目をつけるのはフランスのクラブチームであり、アンダーエイジでの代表入りを進めるのはフランス側である。そして彼らは行く行くはフランス人選手としてフランス代表となっていく。フランスの若手育成については定評のあるところであるが、このような二重国籍のタレントにフランス代表の青いユニフォームを与えて、多民族集団フランスはフル代表のレベルでも多くの栄冠を獲得してきた。
■スティード・マルブランクとベルギー代表
ところが、今回の規定の変更は若手育成の段階でフランスがタレントを発掘しても、フル代表入りしていない選手をアフリカの国のフル代表として横取りされるケースも想定しなくてはならない。そしてこのアフリカ選手権での二重国籍選手のエントリーに端を発し、思わぬところからも問題が起こった。それはフランスとベルギーの国籍を持ち、現在イングランドのフラムに所属するスティード・マルブランクがベルギー代表入りの可能性を示唆したからである。フランス人の父親とイタリア人の母親を持ち、1980年にベルギーのムスクロンで生まれたマルブランクはリヨンに4年間在籍し、フラムでは日本の稲本潤一と並ぶ中盤の看板選手である。しかし、アンダーエイジのフランス代表入りは果たしたものの、フル代表入りは24歳になった今も実現していない。今回のFIFAの規定変更によるチャンスでベルギー代表への道が開け、2月12日のフランス代表メンバー発表前のデモンストレーションとなったのであろう。マルブランクの願いもかなわず、ベルギー代表入りはならなかったが、このような動きはフランス代表としても注意する必要がある。フランスとしても今まではフランス代表になるのが当たり前だった二重国籍の選手が他国の代表チームを選び、彼らを育ててきたフランスと戦う可能性も出てきたのである。
■チュニジア優勝の原動力となった2人のブラジル人選手
さらに、二重国籍に限らず、選手の国籍の取得によって、サッカー界の勢力地図は変化しつつある。先述したアフリカ選手権で優勝したのはチュニジアである。この優勝の理由は開催国であること、ロジェ・ルメール監督の采配など挙げられるが、忘れてはならないのはフランシルード・サントスとホセ・クレイトンというブラジルから帰化した2人の選手である。2人ともブラジル生まれでブラジル育ちであるが、サントスは1998年から2年間、クレイトンは1997-98シーズン並びに今季、チュニジアのクラブに所属し、2人ともアフリカ選手権直前にチュニジアから三顧の礼を持ってチュニジア代表入りしている。ソショーの中心選手であるサントスは決勝戦では先制点をあげ、昨シーズンまでバスティアに所属していたクレイトンは守備の要として活躍した。このブラジル人選手の活躍なしにルメール監督の復権もありえなかった。1998年のワールドカップでコーチとしてブラジルに完勝し、王国のプライドを失墜させながらも、4年後に監督として韓国で失脚したルメール監督の再起を手助けしたのがブラジル人選手であったのである。
そして、このような変化を見逃さずに巧みな動きをしているフランス人が1人いるのである。(続く)