第302回 初出場・初得点物語(5) 将軍ミッシェル・プラティニの誕生

■新監督の初戦でゲームメーカーとしてデビュー

 1970年代後半から1980年代半ばにかけて3回のワールドカップに出場し、欧州選手権優勝を果たしたフランス・サッカーの黄金時代の中心選手であったミッシェル・プラティニも初出場・初得点を記録している。
 プラティニがフランス代表にデビューしたのは1976年3月27日にパルク・デ・プランスで行われたチェコスロバキアとの親善試合である。プラティニのデビューは新監督のデビュー戦ということで今まで紹介してきた選手とは異なる。フランス代表は前年まで行われた1976年欧州選手権大会の予選で敗退する。ルーマニア人のステファン・コバック監督が辞任し、コバック監督時代にコーチであったイダルゴが監督に昇格し、このチェコスロバキア戦はイダルゴ新体制の初戦となった。フランスは1968年欧州選手権イタリア大会、1970年ワールドカップ・ブラジル大会、1972年欧州選手権ベルギー大会、1974年ワールドカップ西ドイツ大会に続き、1976年欧州選手権ユーゴスラビア大会も本大会出場を逃しており、監督だけではなく、選手も大幅に入れ替える必要に迫られていた。
 イダルゴ監督がピッチに送り出した11人の選手のうち半数近い5人が初代表。プラティニのほか、パトリス・リオ、マキシム・ボッスシ、ジル・ランピオン、ロベール・パントナが代表のユニフォームに腕を通した。そして残るメンバーも代表歴が10試合以上あるのは47試合目となるミッシェル・アンリと26試合目となるマリウス・トレゾールの2人だけで、実に11人中9人が代表歴1桁であった。新監督・新体制の船出であったが、フランス代表への国民の期待は低く、パルク・デ・プランスに集まった観衆はわずか9500人。このように国民の期待が低かったことが逆に思い切った選手起用を可能にした。そしてこの若いメンバーのチームのゲームメーカーを任されたのが弱冠20歳のプラティニであった。

■プロデビューしたシーズンに代表デビューした将軍

 プラティニの当時の所属はナンシー、鉱業が最大の産業であるロレーヌ地方は古くから多くの移民労働者を抱え、プラティニの親もイタリアからの移民である。サッカーの盛んな国からの移民が多かったため、ロレーヌ地方は伝統的にサッカーが盛んな地域であり、プラティニがサッカー選手を目指したのも当然であろう。プラティニは前年にナンシーとプロ契約したばかりであり、国内リーグでもこのシーズンにデビューしたばかりである。プロデビューと代表デビューが同じシーズンであるということはプラティニの類まれなる才能を示すものであろう。そしてそのプロデビュー1年目の新人は代表でもゲームメーカーという大役を務めるのである。

■強豪チェコスロバキアとドロー

 前年の11月以来4か月ぶりとなる国際試合の相手のチェコスロバキアは3月後の欧州選手権で優勝することになる強豪チームである。この試合、先手はフランスが取った。17分にジェラール・ソレが得点をあげる。ソレもまた代表2試合目というフレッシュなメンバーであった。そして後半に入り73分、フランスの大黒柱のミッシェルからプラティニにパスが渡り、プラティニが追加点を上げる。将軍プラティニ誕生の瞬間である。この試合は終盤にチェコが2得点をあげ、ジネディーヌ・ジダンのデビュー戦とは逆の展開となり、イダルゴ監督、プラティニはデビュー戦を飾ることができなかったが、試合終了間際に交代出場したディディエ・シスも代表デビュー戦であり、プラティニ以外にボッシ、シスとこの試合でデビューした選手がその後10年間のフランス代表を支えることになったのである。

■プラティニを軸としてワールドカップ・アルゼンチン大会予選を突破

 フランス代表は若いメンバーが中心となり、秋にはワールドカップ・アルゼンチン大会予選を迎える。予選の第1戦はアウエーでのブルガリア戦。この試合にはミッシェルはおらず、プラティニがチームの大黒柱となる。ソフィアでのアウエーゲームの先制点はフランスの若き司令塔が奪う。フランスは追加点をあげるが、ブルガリアも前半のロスタイム、後半68分に得点をあげて追いつく。そして試合終了間際の88分、ブルガリアにPKが与えられる。しかし、ブルガリアがこのPKを失敗、フランスはアウエーで勝ち点1を獲得する。11月17日にホームで行われた予選第2戦のアイルランド戦でもプラティニは先制点をあげて勝利に貢献する。アウエーのアイルランド戦では負けたものの、予選最終戦となった1977年11月16日のホームのブルガリア戦、パルク・デ・プランスには4万5000人の観衆が押し寄せ、わずか1年半で国民の期待は高まる。この試合でもプラティニは得点をあげ、3-1と勝利したフランスは久々のワールドカップ出場を決める。この試合でプラティニは代表12試合目、しかし、プラティニより代表歴の多い選手はわずか2人、将軍プラティニの時代になったのである。(この項、終わり)

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