第676回 21年ぶりのアルゼンチン戦(3) 1938年フランス大会をボイコットしたアルゼンチン

■ワールドカップ以外で7回対戦したフランスとアルゼンチン

 これまでの連載でフランスとアルゼンチンはワールドカップでの対戦は29年なく、コンフェデレーションズカップ、キリンカップでも対戦したことがないことを紹介してきたが、それでは当事者同士の合意によって行われる親善試合はどうなっているのであろうか。
 フランスとアルゼンチンの対戦の歴史をひもとくと、ワールドカップで1930年のウルグアイ大会と1978年のアルゼンチン大会で戦っている以外に7回対戦している。そのうち1回は「スポーツ・ナビ」の「連覇を狙うフランス・サッカー『コンフェデレーションズカップ総括(1)』」でも取り上げているが、ブラジルで開催されたインディペンデンスカップでの対戦であり、これまでに両国のどちらかで6回親善試合を行っている。親善試合について語るには両国の歴史について論じなくてはならない。

■フォークランド紛争の武器となったフランス製のエグゾゼ・ミサイル

 アルゼンチンはスペインからの独立国であるが、他の南米諸国と大きな違いがあるのは旧宗主国のスペインだけではなく、イタリア、フランスなどから多くの移民を受け入れ、国民の白人比率は9割近く、白人国家として1816年の建国以来200年の歴史を有する。
 歴史的にフランスとの交易も盛んである。そして首都ブエノスアイレスは「南米のパリ」と呼ばれている。アルゼンチンを語る上で避けて通れないのが1982年のフォークランド紛争である。南米大陸の南端からさらに500キロ離れたフォークランド諸島は大航海時代にすでに英国、フランス、スペインが入植していたが、18世紀前半からは英国が支配していた。この諸島を巡って英国とアルゼンチンの間で戦争が勃発した。2月の戦闘の末、最終的には英国が勝利した。英国が支配していたフォークランド諸島にアルゼンチン軍が攻め込んだため、国連をはじめ主要国は英国を支持する。そしてフランスも英国を支持、対アルゼンチン経済制裁を行った。しかし、この戦争でアルゼンチン軍の生命線を握っていたのがフランス製の武器、エグゾゼ・ミサイルであり、英国軍を悩ませたのである。
 軍事政権下で国際社会から孤立しつつあったアルゼンチンであったが、フランスの政財界はアルゼンチンとの距離を保った。財界の代表がスエズ社である。かつてピエール・イブ・カルパンティエを擁し、日本財界の中枢部に潜り込んだスエズ社はアルゼンチンでも首都圏の水道事業を一手に引き受ける。2005年に撤退するが、アルゼンチン経済に大きく貢献したのである。

■1938年フランス大会をボイコットしたアルゼンチン

 このように政治経済面では緊密な関係にあるフランスとアルゼンチンであるが、サッカーの世界では必ずしもうまくいっていない。第1回ワールドカップのグループリーグでフランスを破り、準優勝となったアルゼンチンは、イタリアで開催された第2回大会では主力メンバーを開催国イタリアに引き抜かれ、抗議の意味も込めてサブメンバーで大会に臨み、初戦で敗退する。ウルグアイ、イタリアと開催国の優勝が続き、アルゼンチンは満を持して第3回大会の開催国に立候補する。南米と欧州とで交代に開催することを主張したアルゼンチンであるが、開催国はフランスになり、2大会連続して欧州での大会となる。アルゼンチンはこれに抗議して大会をボイコット、そのまま欧州は戦火に突入することになる。

■1965年に和解、パリに招いて親善試合

 平和が訪れ、科学進歩により交通機関も発展したが、やはり南米は欧州にとって遠い存在である。南米勢と初めて親善試合で対戦したのが1960年のチリ戦のことである。チリとのアウエーでの親善試合について取り上げ、本連載が始まったが、1960年の試合はパリで行われ、フランスが大勝している。その3年後にはブラジルをコロンブに迎え、1958年ワールドカップの雪辱を期したが、ペレにハットトリックを決められ、2-3で敗れている。
 チリ、ブラジルに続き、ついに1965年6月3日にフランスはアルゼンチンをパリに迎えることになった。1938年のワールドカップ開催をめぐって対立した両国がついに手を結んだのであった。35年ぶりの対戦は仲良くスコアレスドローに終わったのである。(続く)

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