第677回 21年ぶりのアルゼンチン戦(4) 歴史に残る1971年のアルゼンチン遠征
■欧州内に活動が閉じていたフランス代表
ウルグアイでのワールドカップでの初対戦から35年、フランスはアルゼンチンをパルク・デ・プランスに迎えた。フランス代表は1904年に初めて試合を行ったが、この時点で欧州以外で試合をしたのは1930年のワールドカップだけであった。ワールドカップは1950年にブラジル、1962年にチリで開催されているが、いずれもフランスは予選で敗退している。また、戦後になってオリンピックはフル代表が戦う大会ではなくなった。南米勢相手の親善試合もフランス国内で行ったため、フランス代表はウルグアイでのワールドカップ以外は全て欧州で試合を行ってきたのである。
■低迷期に復活を期して初めての遠征
しかし、そのフランスのサッカーも歴史に新たな1ページを開く日がやってきた。フランスは1966年のワールドカップで惨敗する。そして1968年の欧州選手権の予選、1970年ワールドカップ予選と連続して予選落ちしてしまう。この敗戦が当時のフランス協会のジャック・ブローニュ会長を動かす。ブローニュ会長は若手の育成に力を入れ、育成機関を設立した。そして若手の育成が機能している国を訪問し試合を行った。それが、1971年初めのアルゼンチン遠征であった。南半球に強国がそろっているラグビーの場合は遠方への遠征は珍しくはなかったが、サッカーの世界では初めての遠征となったのである。年末年始のこの期間、フランスは南半球に渡り、アルゼンチンと2試合を行ったのである。遠征して同一チームと2試合行うのはフランスにとって初めての経験であった。
■アルゼンチンと1勝1敗、関係を修復
まず、第1戦はブエノスアイレスのボンボネーラ競技場で試合を行った。この試合フランスは開始早々に先制点をあげ、ゴールの応酬となったものの、常に先手を取り、4-3と競り勝ったのである。この試合は地元のアルゼンチン人が主審を務め、試合の終盤に審判への不服を申し立てたジャック・ノビが退場処分となったが、フランスが勝利を収めた。フランス代表にとっては1930年のワールドカップ以来の欧州以外での試合で幸先よい勝利で遠征初戦を終えたのである。
第2戦はブエノスアイレスから400キロ南下したところにある保養地であり、漁港であるマルデルプラタで行われた。アルゼンチンはメンバーを大幅に代え、この第2戦に臨み、開始早々にPKで先制し、その後も追加点を上げて2-0と勝利した。マルデルプラタはこの7年後に開催されたワールドカップでも開催地となった。その際、開催国のアルゼンチンやフランスが所属するグループAはブエノスアイレスとこのマルデルプラタで試合が行われた。フランスはマルデルプラタでは1次リーグで2戦し、第1戦でイタリアに敗れている。すでに1次リーグ敗退が決定した後の第3戦もマルデルプラタで行われ、ハンガリーには勝利している。しかし勝利したものの、ユニフォームの色を間違えて、地元クラブの縦じまのユニフォームで戦うと言う珍しい経験をしており、どうもこのマルデルプラタとは相性がよくないようである。
この遠征をきっかけにアフランスとアルゼンチンの関係は修復された。その翌年にブラジルで開催されたインデペンデンスカップで対戦したのをはじめ、1974年にはパリで親善試合、ワールドカップ前年の1977年にはブエノスアイレスで親善試合が行われたのである。
■最初で最後となった遠征、思い出の地で世界の舞台に復帰
1971年のアルゼンチン遠征はフランス代表にとっては画期的なことであった。日本の皆様ならば当然と思われている、強化のための遠方への遠征、そして遠征先での同一の相手との連戦、これはフランス代表にとって初めてのことであった。しかし、アルゼンチンとの関係は修復したものの、フランスは長いトンネルから抜け出せなかった。フランスは1972年欧州選手権、1974年ワールドカップ、1976年欧州選手権と予選敗退が続き、1968年欧州選手権から通算すると5大会連続の予選敗退となった。その後、このような遠征は行われておらず、アルゼンチン遠征は最初で最後の経験となったのである。
そしてそのフランスもようやく1978年ワールドカップに出場、思い出の遠征の地が世界の舞台への復帰の地であった。フランスは1次リーグで敗退したが、1980年代の黄金時代への息吹を感じさせたのである。(続く)